にっき

しばらく書いてなかった。先週も今週も雪かきはした。
繁忙期にタチの悪い仕事が重なり、週1回以上はライブの予定を入れないようにしている。3組のライブ(仮)にも初めて行けんかった。諸々無理して行った星野源武道館についてはそれをダシに大いに自分語りをしたいところだけどまだまとまらない。星野源のコンサートは、ただライブを見に行くというのとは違って、それを見るとその時自分にとって何が一番大事かわかると言う体験をしに行く所でもある。宗教じゃないですよ。


星野源は、武道館の2階の真ん中あたりから見ていて、最初モニターを見ていたら、あ、これはダメだ、これを見たら自分とコンサートの間に余計な物が挟まると思って極力見ないようにして2時間半過ごした。このコンサートはWOWOWで放送されるのが決まっているので、たぶんそれ用のカメラなんだと思うのだけど、撮り方にすごく物語があって、それを見ていると後日自分が家のテレビで見たときにどういう気分になるのか、どうセンチメンタルになるのかまで先取りするかのようにわかってしまって、これは今見たらダメだと思った。
中越しの客席とか、ヴォーカル越しのホーン隊とか、視線による物語はもちろん、あのちょっと、映像が音より遅れる感じとか、コマが飛んだように、でもすこしスローになる感じとかだけでも、ああ映像の物語はこういう所から発しているのかとわかった。
正面から少し下手寄りの、双眼鏡(もちろん持参)が無くちゃ表情も見えないようなあの不自由な視界だけが、私の視界で、それを見ているときはライブで、モニターを見たらテレビだった。


星野源を見ている間中、あんなに気になったのだから、今の私にとって、「テレビ的演出」と「発光」がもっとも重要な命題なのだろう。実際、少し前にこの本を読み終わってからずっとテレビについて書きたいと思っているのだけどまだ書けない。


「テレビリアリティ」の時代

「テレビリアリティ」の時代


たぶん書いても、テレビの悪口にしか見えないだろうし、テレビ見てない自慢に見えるだろう。この本と、


すゞしろ日記

すゞしろ日記


この本の中にあった

テレビの「テレビ味」のつけっぷりといったら……。『難しさ』と云う苦味に対して、テッテイ的に『わかり易さ』と云う甘味をつけたがる。
素材の甘味ではなく、「テレビ味」と云う甘味料にヘキエキして殆ど見なくなってしまった。

と言う言葉を読んで思ったことを。


結論は出ていないけど少し書いてみる。


年が明ける少し前くらいから、内容がおもしろそうだと思っても「それがテレビである」という理由で見る気力が削がれるようになってしまった。それはたぶん、画伯の言葉が一番近い。
でもこれはテレビ見てない自慢ではなくて、私にはテレビを見る筋力のようなものがないんだと思う。
好きな人が出ていると、我慢して見続けられるだけなのだ。


私が本やライブや漫画を好むように、テレビを好きな人が大勢いるのもわかっているし、探せばおもしろい番組があるのもわかっている。さっきもゴッドタンのイチャまんで声を上げて笑った。
でも、もう、良いところだけを見ていてもテレビはどうもならないんじゃないだろうかと思う。私も選んだ「嫌なら見なければ良い」が、一番間違いだったんじゃないか。「嫌なら見なければ良い」が成立するメディアじゃないテレビは。そう言うには、自分以外に見ている人が多すぎて、そのイメージで決められるものが多すぎる。
私はオタクだから、「みんなが好きなものが好き」とか、「テレビで取り上げられたからあれが欲しい」とかがわからない。これはこれで不自由ではあるけど、別に支障はないと思っていた。
でも、ある物に対する自分の価値観が変わらないまま周りのそれに対する価値観が、テレビによって一変すると、無関係ではいられないのだと年末わかった。それで、「嫌なら見なければ良い」は通用しないのだともわかった。


テレビのことを考えると、いつも荒川洋治さんのこの文章が浮かぶ。

人目につかないところで、いい仕事をする(たとえば活字の世界)ことは必要だ。だがテレビはもっとたいせつだ。テレビはみんなが見る。見ることのできるところなのだ。そこで心をうるおすものを作ることはとてもたいせつなことだ。みんなが見るところでへんなものをつくることは、なにより悪いことだ。多数の人生を、ごそっと粗末にするのだから。死よりも暗いものにしてしまうのだから。

忘れられる過去』「一つ二つ」p.255

そしてその10年後に出た本の中のこの文章も。

だが彼らが演じる人間の世界を通して、ほんとうに会いたい、話をしたいと思わせるような魅力をもった「人間」を、こちらが知る。そのことがうれしいのだ。こうした「人間」を現実の人の世界では、目にすることができない。そういう時代になったのではなかろうか。何かおおきなものが、この世では見られない、とうといものが画面に映っている。そんな感じがする。このところとくにその思いが強いのである。だからテレビを見ることはたいせつなことなのだ。

文学のことば』「俳優の時代」p.33

ここで言う「彼ら」は時代劇の俳優で、「魅力をもった「人間」」は「彼ら」が演じる歴史上の人物のことだ。
でも、私には、この「人間」を、日常生活では目にしないような特段の技術や魅力を持った人のことと考えるととてもしっくりくる。私はテレビをカタログのような物だと思っているから。
テレビで気になる人がいると、その人の「本領」が見たいと思う。これは、中学の時にカウントダウンTVのゲストライブで「今夜はブギーバック」を歌う小沢くんとスチャダラパーを見たときからずっと変わらない。だから、ジャニーズを知ったときはコンサートに行ったし、芸人さんを知ったときにはライブにネタを見に行った。


テレビに出られるほどの、特別な人がいて、その人が本当に生業とする世界が、テレビの向こうにあって、それはテレビよりずっと狭くて、豊かで、敷居が高くて、濃度の高い世界だ。テレビはそれを垣間見せ、時に入り口になる役割がある。
でも今、テレビは、テレビに映らないものがあるとあまりに伝えない。テレビに映る物が全てのように映し、またそれを真に受ける人がたくさんいる。


私がテレビに絶望したのは、実はテレビを見ていたときではなくて去年もうすっかり空いていたコレド室町に行ったときだった。いつかあんなに連日テレビで特集されたコレド室町は無茶苦茶狭かった。金箔の店も出汁の店も、アンテナショップとしてはおもしろいけどあんなに大きく取り上げられるような物じゃない。あの建物は、近隣の勤め人のご飯スポットだ*1。それをあんなに針小棒大に取り上げると言うことは、もう内容なんて本当にどうでも良いんだと思った。伝えたいことなんかなくて、ただ、近場で、目新しい物で時間を埋められたら何でも良いんだと。同じように騒がれた原宿の東急プラザも振り向いたらフロアの行き止まりが見えるくらい床面積が狭くて紹介された時間と全然合っていなかったし、ソラマチもアトレと丸ビル足して東京タワーの官報置いてるテイストをちょっと混ぜた駅ビルだった。


出ている人の技術や魅力ではなく、「テレビ番組」そのもののおもしろさで勝負している番組について全く思いが至っていないことは自覚している。自分がそれで見続けられた番組があまりないからと言うのもある。NHKの番組は結構あるのだけど(すぐ思いつくだけでもカワイイTVとかサラメシとかアルクメデスとか)民放だと本当に「リアル脱出ゲーム」くらいしか思い当たらない。1回はおもしろいと思っても、続かない(筋力不足の所以)。


後は、「テレビに出られない自分たちは価値がないと言う顔をしていると出られるテレビ」の矛盾についても頭から離れない。でもこれは、「私は私を会員にするようなクラブには入りたくない」と言う別の矛盾で説明がつく気もしている。

*1:名誉のために言っておくと孫先生のお店のお二人様からの点心コースは量も適度で全てのお料理がおいしくて本当にお値打ちだった