クリームドーナツを買う日のエントリ

自分では全く手の届きようのないことで鬱々とする。こういうときは、クリームドーナツを買う。どこの何でもいいから、「クリームドーナツ」という呼び名でありさえすれば良い。今朝は、セブンイレブンの「カスタードクリームドーナツ」だったので、厳密には「クリームドーナツ」ではなかった。
食べたいわけではなく、クリームドーナツを買う時、持って歩いている時、食べる時、荒川洋治さんの名エッセイ「クリームドーナツ」を思い出すことができる。私が知るなかで最も美しい掌編のひとつ。あの文章を思い出せば、この世には美しいものがあるんだと信じられる。そのために、クリームドーナツを買う必要がある。


昨夜のSMAP×SMAPの生放送部分を見てからずっと気持ちが塞いでいる。それがどうしてなのかはっきり言葉にできないからなおのこと鬱々とする。
事務所に関しては、私は7年前エイトが8人に戻らないとわかった時点で失望しきっているので、どんな横暴をしても「事務所はずっと事務所のやりたいようにしかやってこなかったじゃないか」としか思わないし、たぶんその横暴には渦中のマネージャーさんだって含まれている。「SMAPでもダメなのか」と言う驚きはあれど、今さら新鮮に落胆するほど高低差があるところにいたとは思えない。
じゃあなににこんなにがっかりしているのか、なににこんなに怯えたような気持ちになっているのか。結局のところ、テレビなのか。


あの会見はただただ怖かったし、なにもわからなくて不気味だった。むしろあの会見は、あの不気味さを伝えるためだけのものだったとさえ思える。今は話せることが何もないが、とんでもない状況にいるというのだけが確かなこと。今日は何人かの同僚と怖かったね、怖かったね、と話した。特にジャニーズが好きじゃない人も、ただただ圧力と不気味さだけは感じていた。それだけは過たず伝わったのだ。たぶん信じられないくらいの人数に。それはテレビという装置を使ったから。

人目につかないところで、いい仕事をする(たとえば活字の世界)ことは必要だ。だがテレビはもっとたいせつだ。テレビはみんなが見る。見ることのできるところなのだ。そこで心をうるおすものを作ることはとてもたいせつなことだ。みんなが見るところでへんなものをつくることは、なにより悪いことだ。多数の人生を、ごそっと粗末にするのだから。死よりも暗いものにしてしまうのだから。

以前にも引用したことのある文章なのだけど、このエッセイは著者が「僕の生きる道」を見たことで、テレビドラマを再び見るようになったという内容だった。今読み返すまでその部分をすっかり忘れていた。

主題歌はSMAP世界に一つだけの花」。

引用は2つとも荒川洋治さんの「一つ二つ」(みすず書房『忘れられる過去』所収)より。「クリームドーナツ」もこの本に収録されています。はまぞうでは文庫しか出てこない。


忘れられる過去 (朝日文庫)

忘れられる過去 (朝日文庫)


あの会見を流した人たちは、あれを見た人が、どんな気持ちになって、どんな気持ちで眠りに就くのか、考えなかったんだろうか。映像のショッキングさとそれの合わせ技でこんなに気が塞いでいるんだと思う。どれだけの人数の時間を、人生の一部を、どん底に突き落として翌日まで引きずらせて、どれだけの人生を粗末にすることになるのか、考えなかったんだろうか。
粗末にしようとしたんじゃなく、あれしかできなかったのかもしれない。視聴率の前にはそんなものは歯牙にもかけられないのかもしれない。でも、私は、やっぱり、テレビだけはそれを考えなきゃいけないと思う。テレビはみんなが見るものだから。「見られる」という可能性でも、「見ている」という監視でもない、「見る」と言う、現在進行形でも過去形でも未来形でもない至極あいまいなそれを、「みんな」がするメディアでありインフラであるテレビだけは、見た人の人生を左右するんだと常に思い遣ってほしい。見た方がわるいと言えないくらい、事故よりもはるかに高い確率で、だってテレビはみんなの家にある。
昨日の会見はほんとうに、ほんとうに後ほんのすこしだけでも、見た人の気持ちを前に向けるものにできなかったんだろうか。そうしたら、どれだけの人生の一部を幸福にできていただろう。そういう、兵器にも花にもなるものを、各家庭のお茶の間にまで張り巡らせて、それをそこにいる人ひとりひとりの人生に思いを凝らすことのできない人間が作っているなら、それはミサイルのスイッチを握られているようなものだ。


ショッキングだったけど、映像だったから伝わってくることもたくさんあった。そればかりだったと言ってもいい、言葉以外のすべて。表情も、憔悴も、目線も。取り繕おうと思えば取り繕えるであろうにそうしなかったこと。伝わったけど、でも理解ができない。その伝わってきたことが、状況を読み解く助けにならない。
同じものを見て、明るい材料を探せて、救いになった人もいるんだろう。みんながみんながと言いつつ、みんなが一様じゃないことはもちろんわかってる。


あの会見を見て思った「みんなが見るところでなにしてんだ」を、前にも思ったことがあって、それはいいともの最終回だった。同じように思った。でもあの時は、「みんな」は喜んでいた。すごく楽しんでいて、テレビはたくさんの人の時間を幸せなものにしていた。その価値も暗黙の了解もわからない私は、自分が「みんな」に入っていないことをわかっていながら、超豪華メンツでグダグダになったライブのEDのような光景を見て「みんなが見るところでなにしてんだ」と思った。


「みんな」なんていつもは避ける言葉を使うのは、テレビの話をしたいからで、こんなに気持ちが晴れないのは会見そのものもさることながら、テレビがそれを流してよしと判断したことが恐ろしいからだろう。恐ろしいことがわかってしまったからだろう。これがテレビで放送されたのでなければ、こんなにも恐ろしくなかった。この間の、ジャパネットたかたの高田社長最後のストリーミング放送。あれを見た後はジャパネットで買い物したこともないのに結構幸せな気持ちで眠りに就いたのだ。