ヒーローごっこ

KYE-D大知マンショー
4/14(日) あるあるCITY 12:00/16:00

「メタが好き」と言い続けてきて、好きなのは変わっていないのだが、「好き」の内訳を変えないといけない気がしてきた。KYEを経て。
メタが好きな理由の一つに、「現実を借景にすることによって、描写以上の意味がフィクションにもたらされること」があるのだけど、今回のKYEでは、現実が借景なんてかわいいものに止まってなかった。「現実の方が殴り込んできた」とすら思った。

今回の脚本で一番好きなセリフは、執筆者であるキタキュウマンの「こんなに書くのに困った台本は初めてだよ!」だった。このセリフを聞いた時、もちろん笑ったけれど、笑いながら、これはどっちだ?と思った。
メタだとかメタじゃないとかそういうのを超えて、笑ってしまうくらい切実な、困っているけど書かねばならない、なぜならKYE祭はやると決まっているから、という、動かし難い現実の事情がフィクションの方にはみ出ていた。
フィクションの中に現実が織り込まれているのではなく、現実があってフィクションが作られている。ああそうか、KYE祭を続けていくという現実そのものが、KYE祭というフィクションに作用するようになったのか、と思った。そのくらい、KYEがあるということが、織り込まれている。舞台にも、スケジュールとしてこの先の現実にも。
そして現実とフィクションを隔てる壁が揺らいでいるのに気づく。

今回が素面の多い公演だったから、現実と区別がつきづらいのだろうか?とも思った。だが、実のところ、今回の出演者の素面の姿というのは、観客にとってはガワをまとった姿よりも身近ではない。会社経営者/個人事業主と客とは、本当の意味では知り合いですらないし、アクターの人たちは言わずもがなである。姿形が人間であっても、そっちが現実というわけではない。
だからそこじゃない。演じているのが人間だからという至極つまらない種明かしで、揺らぐような類のフィクションを見ていたのではないことはわかっている。あと、私が素面の博多のランドゼイラに鞄漁られて、本当のクレカの入ったカード入れを奪われたからでもない。念のため。

ただただ楽しかったー!という興奮が落ち着いて、自分があんなに楽しんだものはなんだったのだろうと考え始めていたとき、沖縄からKYEDの4人が揃ってキャスを配信した。
確かに台本の1ページ目に書いてあった。「実施の趣旨:沖縄旅行の資金を稼ごう!」って。それがこの速さで現実になっている。いやもう、ほんとに、どっちだよ!って大笑いしてしまった。

公演が終わってから思い出したのは、寺田寅彦の随筆だった。青空文庫寺田寅彦 柿の種』に全文があったので引用する。

 日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている。
 このガラスは、初めから曇っていることもある。
 生活の世界のちりによごれて曇っていることもある。
 二つの世界の間の通路としては、通例、ただ小さな狭い穴が一つ明いているだけである。
 しかし、始終ふたつの世界に出入していると、この穴はだんだん大きくなる。
 しかしまた、この穴は、しばらく出入しないでいると、自然にだんだん狭くなって来る。
 ある人は、初めからこの穴の存在を知らないか、また知っていても別にそれを捜そうともしない。
 それは、ガラスが曇っていて、反対の側が見えないためか、あるいは……あまりに忙しいために。
 穴を見つけても通れない人もある。
 それは、あまりからだが肥(ふと)り過ぎているために……。
 しかし、そんな人でも、病気をしたり、貧乏したりしてやせたために、通り抜けられるようになることはある。
 まれに、きわめてまれに、天の焔(ほのお)を取って来てこの境界のガラス板をすっかり熔(と)かしてしまう人がある。
大正九年五月、渋柿)

ただ、ここで拭いきれない疑問が。「1部のショーのリハーサルを2部で見せる」とか、「ガワがジェンガをやってるところを見せる」とかが、「天の焔を取って来」ることになるとわかってて、やってるんだろうかあの人たちは。
……どの方向から頭捻ってもわかんなくないか。ガワがジェンガやったら現実とフィクションの境が揺らぐって。どんなことであれ、「お仕事でやってる人が一番強い」というのは絶対に確かなのだけど、素人には度し難いけれど、いやしかしアプローチがジェンガ……。

まぁそもそも、KYEに現実とフィクションをごっちゃにするという目標があったわけでもないだろう。ただ回数を重ねて、KYEがあるという現実が、KYEの舞台というフィクションに作用するようになった、それを見続けていた観客の一人である私の、フィクションと現実の捉え方が変わったということだ。

ドゲンジャーズが始まってからずっと、「この物語はフィクションですが、ヒーローは実在します」のスタンスに魅了されてきた。だから、「現実の福岡の街に普通にいるヒーローや怪人」の姿がその象徴的な絵面だと思っていた。
現実を纏った彼らが、フィクションの中にいることは、逆でありながらそれと同じことなんじゃないか。
そしてもう一歩先、実在の姿が現実の中にあるという至極当たり前のことさえ、フィクションは無関係ではいられない。
一見普通の成人男性4人が沖縄にいる。実在の姿が現実の風景の中にいても、あの舞台の観客にはガワの姿が見えている。もうフィクションの物語の幕は降りているのに。

考えれば考えるほど、自分がどの位置からどのレイヤーを見ているのかわからなくなる。でも、思えば昭和の昔から、唐草模様の風呂敷は脱色せずとも月光仮面のマントになった。ヒーローごっこが終われば、そのまままた風呂敷に戻る。
それと同じことなのかもしれない。レイヤーとか次元とかではなく、ひとつのものでありながらどちらでもあり、それをどちらとするかは装置でも仕掛けでもなく、まなざしひとつでしかないのだと。
でもそのまなざしは、客席からKYEの舞台を見ることによって、今までは見えなかった種類の光を見る手段を獲得してしまったかもしれない。その光が照らす現実の明日も一緒に。