砂遊び

KYE祭 第1部
キタ:閑散期イベントスックネー‼︎祭
ヤバ:キタキュウマン10周年おめでとう!ここが貴様の墓場だパーティー
エクス:二人にイベント名考えさせるんじゃなかった
3/19 あるあるCity B1スタジオ 12:00


なんで笹井さんがヤバちゃんに入るんだろう、若しくは、なんでシャベさんじゃないんだろう。告知画像を見て真っ先に思ったのはそれだった。

スーツアクターをどのくらい表に出すかは運営ごとに違うけど、私は一番よく見に行く結社がアクターをクレジットしないのと、単に動いているところを見てもどの人かわからないという理由で普段あまり気にしていない。
が、今回は最初からヤバちゃんが笹井さんと告知されている。笹井さんがヤバちゃんに入ったところ見た事ないし、明かされているならそれを理由に見に行くのもいいだろうと思った。
結果、行ってよかったし、見られてよかったし、ヤバちゃんを演じたのが笹井さんだということで物語もアクションも刺さりまくってしまったのだけど、予告されていなかったら見ても中身が笹井さんとは絶対わからなかったと思う。それで、笹井さんと知らないで見た時と、知ってて見た実際のところでは、受けた衝撃が全然違ったと確信できてしまう。
これはどうなんだろう、予備知識ありきの感想は、ショーそのものの感想なんだろうか?と思わなくもないのだけど、でもなぁ、肩書きとレイヤーがいくつあるのかわからない人のファンやってて、そもそもその多重構造あっての今のはまりっぷりなのだから、そのどれかの要素だけ抜き出して感じるとか無理なので、見たものを見たままに書くしかないのだと思う。

見終わって、なるほどこれはシャベさんじゃなくてヤバちゃんでないとダメだし、そのヤバちゃんに笹井さんが入る意味があるショーだと思った。なんて冷静に思えたのはチェキ会も済んだ後だけど。

キタキュウマンの10周年を祝うヤバイ仮面の行動は社会人として真っ当で、どこにも非難されるようなところはない。
でもキタキュウマンだけはそれに違和感を持ち、違和感を持たれたことをヤバイ仮面は気づき、そのことによって、自分自身の行動指針がずれていることに気づく。
ここで描かれているのは、自分よりも自分を理解している他人がいて、さらに、自分自身がそのことを自覚している、という、普通に生きててあまり目の当たりにしないくらいの深くて濃い関係性だ。
ヤバちゃんがどこから来たのかとか知らないというか出自の設定があるのかすら実は知らない。最初のPVで「この地球を」って言ってるから、なんとなく外宇宙から来たのかなと思ってたんだけど、なんかもう、どこから来たにせよ、この宇宙の片隅でこんな理解者に出会えてよかったねと心から思った。
いや心の中はお祭り騒ぎでしたけどね。私一期で一番好きなセリフはヤバイ仮面の「お前を甘やかした俺にも責任がある!」ですからね。ショーの最中、何度カメラ投げ捨ててメモ取ろうと思ったことか(我慢した)。
そんな理解者であるキタキュウマンは終始、ヤバイ仮面に働きかけてこない。ただ受け止めて、その反応から、ヤバイ仮面は自分でも気づいていなかった自分に気づく。気づかせようとすらしていない。ヤバイ仮面が勝手に気づくだけで。
自らは動かない。でも、ヤバイ仮面が斬りかかってきたら受け止める。バチバチの決闘が、ヤバイ仮面の本当に楽しいことであるとキタキュウマンにはわかってるから受けて立つ。あの、あの戦いたくない人が! 剣と銀鱈ブレードで一騎打ちを!

この全部の、中に入っているのが滝さんと笹井さんという現実のビジネスパートナーであるということを、さっぴいてはとても見られない。
10周年を祝うヤバちゃんの中身の笹井さんが経営している会社は8期目で、10年以上残る4%に入れるかまだわからない。
ドゲンジャーズを4年間続けてきた人の演じるキャラクターが、「人のための楽しいを続ける事に必死になってた」と言っている。
中の人を意識せず、「楽しい」と叫びながらアクションするヤバイ仮面のガワだけを見ることは、どうやったってできない。
ただ全てを受け止めるキタキュウマンは、滝さん自身のかっこよさというより脚本家シャベリーマンの「キタキュウマンは俺のヒーロー」フィルタを通した一期キタキュウマンの色が強い気がするけど。
こうやって、いくつもの事実と虚構と空想が重なり合ったその先で繰り広げられるステージは、観客各々の目に飛び込んでくる時にはもう、それぞれ全然別の物になっているのではないかとすら思う。観客一人一人に、自分だけの事実と虚構と空想があるから。


少し前に読んだこの本の、第6回「着ぐるみ学入門」は、ふなっしーを例に挙げ、着ぐるみと中の人、そして観客との関係性について大変興味深い記述の連続だった。
ヒーロースーツと着ぐるみは似て非なるものではあるけれど、

どれくらい「中の人」を「透かす」かのチューニングをすることで、キャラクターの個性が生まれているのです。

この一文を読んだ時、私が真っ先に思い出したのはキタキュウマンだった。
「中の人」を「透かす」度合いは中の人が決められるけれど、透かされた部分を知った上でどのくらい「透かして見るか」は、観客が勝手に決めてしまうというか、どうやってもそうとしか見られない見方というのがそれぞれにある。
それを「解釈」としてしまうと、正解だ不正解だということになってしまわないか。現実と虚構の境が曖昧な対象を見る時、それが結構悩みどころだった。

わたしがふな菊祭で目の当たりにしたのは、この噓と本当、「ファンタジー」と「リアル」の両方が絶妙にせめぎ合うふなっしーの全てを、数百人のお客さんがあたたかく受けとめることで生まれる幸福な関係だったように思います。

「解釈」ではなく、「関係」なのではないか。ならば千差万別なのが当たり前で、その中で幸福なものを自分で選ぶこともできるんじゃないか。このテキストは、そいういう示唆を与えてくれた。

表に見えている姿はキャッチーで、その裏側には様々な議論を呼び得る要素がてんこ盛りです。つまり、何も考えずに見ても楽しめて、深読みしようとすればいくらでも可能という、普遍的で魅力的なエンターテインメントの一つなのだろうと思います。

自分にとって本当に楽しいこととは、という今回のショーは、結社の社長であるヤバちゃんだから意味がある。たとえ中の人が同じであろうと、部長のシャベリーマンでは成り立たない。
それを、実在の悪の秘密結社の代表取締役の笹井さんが中に入って演じている。知ってるこっちは、勝手に深読みしてしまう。
どこまでがヤバちゃんで、どこからが笹井さんなのかなんてわからない。でも、最近全くヤバちゃんに入ってなかった笹井さんが、このショーを演じている。現実の舞台で。その現実は会社を経営していく明日と地続きであり、このステージを経た次の日なのだ。
しかもその明日は、観客にも等しく訪れる同じ日である。私はこのことがもうずっと面白くってしかたない。

2部のトークショーで、恰幅のいい下唐湊さんと、イケメンオーラ全開の滝さんと並んで、笹井さんは脱いだガワの分よりさらに2回りくらい小さく見えた。
その姿を見て、一番最初に素面の笹井さんを見た時のことを思い出していた。ちなみに「えっこの学生演劇の主宰ですみたいな青年が悪の秘密結社率いてドゲンジャーズ作ってやくいく手帳のBtoB戦略立てて3,800万のクラファン成功させたの……!?」が私のファーストインプレッションである。ほんとにあの時と同じように思った。
あの最初のバスツアーの時、経営者と個人事業主という若い2人の芯の強さに圧倒されたのだけど、今回はそこに下唐湊さんもいて、なんか、つくづく、心配できることなんてなにもないんだなぁと思った。
雇われには想像もつかないような鉄火場にいる人たちのことを、それでも身近に感じてしまうからつい心配してしまったりするけど、心配の種すら、ほんとうはこちらには見えていないのだとしみじみわかった。
ただただ楽しめばいいのだなと思った。見てもいい部分を見せてもらっているのだから、それを見て楽しめばいい。どんなに深読みしたところで、それだって見えていい範囲で、彼らのチューニングしたラインを越えることはできないししたくない。
若く清しい経営者たちと個人事業主の姿を見て、なんだか帰り道すごくこざっぱりした気分だった。あの晴々とした気持ちは、あるあるCityから小倉駅までが陸橋で、地上より空に近かったからだけではきっとない。楽しめばいいんだ、それだけでいいんだ、それしかできないんだと思った。

なにもそんなに持ち込まなくていい砂場は砂で遊んでていい

平井弘『振りまはした花のやうに(併録『顔をあげる』『前線』) (短歌研究文庫)
「Peace」所収

でもその砂が、私にとって砂金であることは許して欲しい。