空白の効能

 

 

ここ10年弱、Twitterで「若林」をミュートワードにしていた。理由は、2年目くらいのANNを聴いていたら、名前を見るのもいやなくらい嫌いになってしまったからだった。
2年目くらいのANNでの若林さんは、私のようなミーハーなファンをとことん嫌って、傷つけて、ふるいにかけるような発言ばかりしていた記憶がある。本当にそうだったかはわからない。ただ私はそう感じた。毎週毎週自分の悪口を言われるのは堪えた。好きだと思っていたからつらかった。つらいなら聞かなきゃいいんだと思うまでに大分かかって、その頃にはテレビでも見たくなくなっていた。
しかしお笑いのネタどころかバラエティもほとんど見なかった私が漫才に興味を持ったのは、オードリーが出たDSのCM(2009年)がきっかけで、知り合った友達もみんなオードリー好きだった。なので嫌いというのも角が立つし(ばれてそうだけど)TL見ないのも無理だしとミュートにした。ちょうどオードリー揃っての仕事があまりなくなっていたので無理に見たいと思うテレビ番組もそうなかった。ラジオを聞くのをやめて、ミュートしたら、私の生活とは関わりのない人になった。それから2015年の末くらいまではお笑いライブに行って過ごしていたけれど、「若林」を含むツイートをミュートしていた私がTwitterを通して見ていたお笑いの世界は、お笑い好きの人が見るそれとは大分違ったと思う。

私はすぐに他人の人生に熱を上げて入れ込みすぎるけど、無理に離れる効能も知っている。7人のエイトを見続けていたら嫌いになると無理やり見るのをやめたから、今楽しく関ジャムを見られている。同じように、最近、「激レアさんを連れてきた」を楽しく見ていた。
テレワークになって、一個気を散らしておかないと逆に仕事に集中できなくなり、ラジオやバラエティを流しておくことが増えた。ドラマは筋を追ってしまうのであまり向いていなかった。
TVerで配信されているバラエティを見尽くしてしまって、初めて「あちこちオードリー」を見た。ものすごく面白くて、声を上げて笑ってしまった。
若林さんが、春日さんが、というより、「オードリー」が好きだった。私はラジオ好きを名乗れるほど、ラジオという媒体そのものに触れていないけど、好きな人がやるメディアではラジオが一番好きだ。ラジオで嫌いになったら他のメディアでは取り戻せない。だから、最後まで「オードリー」が揃っているテレビ番組を見られなかったのだけど、単純にこの番組もオードリーもおもしろいから見たいわ、と思った。
それでもう大丈夫かなと、ついこの間ミュートを解除した。そうしたら、複数の友人からこの本を面白いと言われたので、文庫を買って読んだ。単行本が出た頃は、手に取るのは無理だと思った記憶がある。

「あとがき コロナ後の東京」の中に現れた、「傷つけば血が流れる、その繋がりのこと」という言葉に立ち止まって考えた。私はあの時ANNを聴きながら毎週傷ついてだくだく流血してるみたいだと思っていたけど、あれはあれでそうだったのかしら。片方が一方的に知っているだけの関係でもそれは成り立つらしい。それの最も幸福な形が解説を書いているDJ松永さんで、血を失いすぎて破綻したのが私だったのかしら。
それはそれでひとつの形だったなら、もう、いいや。

この10年の若林さんがどんな人だったのかすっぽり抜け落ちて知らないけど、10年前と随分違うんだなというのは激レアさんを見てるだけでもわかって、その若林さんの背景にはこういう経験や考えがあるんだなとごく一部だけどわかる。それはこれからも若林さんを深追いせずインスタ(やってるよね確か)もフォローせず、テレビを通じてたまに見るだけの私にさえ、確かな信頼になる。そういう本だった。