テレビが視たい

タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?

タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?

ちらりと見た「タモリ本」の多くに「タモリさん死んじゃったみたいだな」と思ったのは、その再評価の機運そのものにではなく、誰もタモリさんに話を聞きに行かなかったからだった。人が死ぬと言うことはもうその人と話せないことだから。
この本はあとがきで、なぜ直に話を聞きに行かないのかと言うことが書いてあったので、その点が初めてすっきりした。もちろんここには書かないけど。


この本に書いてあるタモリさんのことが読者である私に届くまでには、少なくとも著者がひとり、タモリさんと私の間に挟まっている。タモリさんにまつわる第三者の証言を紹介すると言う形だと、証言者と、著者の、ふたり。
例えばタモリさんの聞書きの本が出たとしても、インタビュアーや編集者と言う介在者は存在するだろうけど、この本の中に、タモリさんがこの本用に、ましてや読者に向けて語った言葉は一つもない。電波やネットや活字の海に浮遊していた数多のエピソードの中から著者の取捨選択を経た事実や証言だけが、私の目に触れる。
その網をくぐって作られたのは、著者の手になる「タモリ像」であって、タモリさんの実像ではない。ましてや森田一義という一人の人間でもない。
でもそれでいいのだと言うのが、この本だろう。日本で一番くらいに多くの国民に見られていたのに、テレビ画面を通さず目にした人は驚くほど少ない希有な人。そんなテレビ画面の上で光と影によってのみ像を結ぶ人の、新たな像は今までより立体的だけど、それが一人の人による作品だと言うことは忘れてはいけないと、一章読み終わるごと自戒していた。


そんな労作を読んだ上で、やっぱり、直に見てみたい。ラジオが聞いてみたい。私の目が人より多くを読み取れると思っているわけじゃない。でも、私が見えるものと見えないものを合わせたのが、私にとってのタモリさんだろうから、やっぱり直に見たり、ラジオで話すのを聞いたりしたいと思う。それでわかることとわからないことが、知りたい。
今までもそうしてきたから、それが私の持ってるメジャーなのだろう。たぶんテレビを測るのに全然向いてない。


様々なエピソードをあらゆる方向から照射しながら空中にタモリ像を形作っていくようなこの本を読んでいて、小沢くんのこの文章を思い出した。

えーと、同じことを探求している、というか、たとえばある球があって、(何の話なのよ?)その体積を測る時に、水張ったお風呂に沈めて測る人、直径を測って測る人、いろんな人がいるけど、結局答えはだいたい一緒であるように、方法の違いってのは、別にどうでもいいんですよ、きっと。

DOOWUTCHYALIKE #30「たまにはいいでしょ、たまにはね。」


この「球」は「球体の奏でる音楽」の「球体」とイコールだと私は思っていて、きっとそうだと思うあまり小沢くんの発言の裏をとったりはしていないのだけど、でもそう思っている。
私は著者のような膨大な時間をかけてタモリさんを考えたことはないので、「同じことを探求している」などという気はもちろんないのだけど、誰か好きな対象を見つけたとき、すぐにライブに行こうとし、ラジオを聞きたがる自分のことなど思った。
この本の中で、著者は、「テレビっ子」という自身のメジャーを大いにふるい、タモリさんという球体を測った。
私が持っていないメジャー。それがあればテレビが楽しくなるんだろうな。


私は自分のことを「テレビ音痴」とか「バラエティを見る筋力がない」と書くけど、ほんとうに、感覚として、昔体育で縦の跳び箱が1段も飛べなかった時と似ている。何かの回路がつながっていないのだ。
媚びているわけでなく、テレビを見るのがうまい人が羨ましいと思う。TLに並ぶ実況を見ていて、おもしろそうだなと思って合わせたチャンネルで、全然おもしろく思えないことが多々ある。実況は、テレビを見るのがうまい人たちがおもしろさのエッセンスを掬い上げて編集しているのだと痛感する。
いいともグランドフィナーレ、すごく豪華なメンツが一堂に会したシーンを今日になって録画で見たら、おすぎとピーコも舞台に上がっていた。でもそれは、実況では一切目にしなかった。それは「あの錚々たるメンバーが一つの舞台に」という事実を伝えるときに、不要若しくはマイナスの情報と判断されていたのだろう。その取捨選択、つまり編集。


いいともの終わり際のすごさ(そのすごさを自分がイマイチわかってないのもわかっているんだけど)を見て、「こんなすごいことができるなら、ずっとこれをやってればよかったのに」と思った。
これが、いいともを見ていた人にとってとんでもなく的外れな意見だということはわかる。でも、そう思う。
いいともは、あの無意味なことをずっとやっていたのが良いのだ、テレホンショッキング以外のコーナーを誰も記憶していないところが良いのだと、言う理屈は、わかる。他のメディアに写して考えたとき、無意味さとか、空虚さとか、実のなさ、即効性のなさが大切だと言うことはわかる。
でも、テレビなら、毎日祝祭でも良いんじゃないかと思ってしまう。他のメディアに比べて圧倒的に多くの人が見、時には嫌でも見せられるメディアであるテレビなら、ずっとずっとすごいことをやっていればいいのにと思う。
最後に小沢くんが出るとわかって、前の日からずっと楽しみにしていた。帰ってすぐ、再生して見終わるまでずっとそわそわしていた。
テレビを見るのがうまい人は、毎日これなのかと思うととても羨ましい。だから、テレビ音痴の私にもわかるくらいストレートにすごくて、突き抜けた番組しか放送しなきゃ良いのにと思う。そんな、自分勝手な要望。
別にずっと、練った企画をやって欲しいのではない。「生放送なのに尺も気にせず、タモリとさんまがふたりで延々喋る」みたいなすごさ。隙だらけなら隙だらけに、くだらないならくだらないに、とにかく何かの方向に行ききっていて、どんな音痴が見てもわかるほどにすごいものを(書いてて思ったけど「タモリ倶楽部」が毎回そうか)。
この本の41ページに書いてあるような、「状況」を映すテレビがたぶん一番見たい。前にさんまさんがテレホンショッキングに出た時は、こらなんかおこるぞと思って録画したものなぁ。Mステにt.A.T.u.が出た時も。
わからないのに、音痴なのに、タモリさんが最後に言った「明日も見てくれるかな?」が、明日も「テレビを」見てくれるかな?だと言うことくらいは、わかってしまうから、もっとわかればいいのになと未練がましく思う。


ダウンタウンと、ウッチャンナンチャンと、ナインティナインと、とんねるずのやっていたバラエティを一つも見ていなかったので、ここがテレビ音痴の私の中でも相当のアキレス腱になっている。なので、あの豪華さのありがたみがこれっぱかしもわからない。
真ん中と下手で散らかったり、少し間が開くと、タモリさんお疲れさまでしたと繰り返す天丼に、その微笑ましさまで含めて、ぐだったライブのEDみたいだなと思った。
それが誰か(それもかなり多くの人)にとって宝物のような光景だということは、自分の秤の貧弱さを知ることで、対岸の祭だから仕方ないと思えないのは、うちにもテレビがあるからだろうか。