フィフス・エレメント

「空中キャンプ」さんのフィフス・エレメントというのが昨日からツイッターで話題になってまして。
こういうのは人のを読むのも、自分のを考えるのも、楽しいですね。っつうことで考えてみました。
ただ先に言っておきますと、私はものすごく影響を受けやすいタチで、なにかかたくなにやっていることがあればそれは間違いなく何かに外部的理由があってやっていることで、自発的にやってることはたぶんひとつもありません。
なので、思いつくまま書き出したらどえらい量になりまして、それを全部「元を質せば」という逆樹形図的に絞っていって5つにしました。そのため、要素の多くが小学生時代という。
冒頭の記事によると、「ありふれたもの」「中高時代のもの」がよりよいとされているので、若干はずれてるんじゃないかと思うんですが、まぁこのまま行きます。

チョコレート工場の秘密

小学校の図書室で読んだ。評論社の田村隆一訳版ね。この本があまりにたのしく、面白く、意外で、わくわくして、とにかくそれまでにまったく知らなかった体験をもたらしてくれたから、私は本を読むようになった。私に「本」という物を教えてくれた本。影響を受けた本は多々あれど、そもそもこの本を読んでいなかったらそのすべてに出会わなかった可能性もあった。
ある人が本好きになるかどうかは、子供のうちに「ページをめくる行為と娯楽が完全に一致する幸福な読書体験」があるかどうかにかかっている、と何かで読んだことがある。私にとって、最初の幸福な読書体験は、まさにこの本を読んでいるときだった。
あと、著者という概念を教えてくれたのはこの本と父だった。

ドラえもん

初めて買ってもらったのが当時最新刊だった38巻で、今調べたら1986年12月16日発売らしい。ということは、最初に読んだ漫画ではないけれど(私は字が読めるようになる前からマガジンを読んでいた)、漫画のすごさ、おもしろさ、可能性、月刊連載の楽しみを教えてくれたのはドラえもん(コロコロを購読するようになった)。
上記の本と同じく、影響を受けた漫画は多々あれど、ドラえもんを読んでいなかったら出会わなかった物がたくさんある。そして生まれて初めて「尊敬」の念を持ったの人は、藤子先生だった。
この後藤子先生の作品を片っ端から読み、漫画家になりたいわけでもないのにトキワ荘にあこがれ、今でも「ふたりでひとつの名前を使ってひとつの仕事をしている人たち」には羨望のまなざしを送ってしまう。そんできんつばはおいしくて、栗まんじゅうは怖い。

ひょっこりひょうたん島

小学生の時にやったリメイク版を見て、いっぺんで虜になった。私はとにかく、あらゆることに関してシニカルというかぶっちゃけかわいげがないのだけど、これはひょうたん島に多大な影響を受けていると思われる。
わかりやすいところだと、かなり序盤で、食べ物をわけてくれなかったトラヒゲの倉庫に子供たちが忍び込んで食べ物を盗むというエピソード。サンデー先生は、子供たちに謝罪をさせようとするが、そのときにハカセが言った台詞が、子供心にあまりに強烈だった。以下記憶のみで

四方を海に囲まれたひょうたん島には、食べ物がない。そこで、トラさんが食べ物をわけてくれないなら、それは僕たちに死んじまえと言っているのと同じことだ。
先生は、ほんとうに悪いのが誰かも考えないで、いちばん言いなりになる僕たちに謝らせて解決しようとした。

そう言って、「正しいことがいつでも正しくて いけないことがいつでもいけないそんなところへ行くんだよ」と歌いながら出て行ってしまう。
私はこの後、高校で恩師に会うまで「大人も間違う、先生がいつも正しいとは限らない」が常に念頭があるヒネた子供だったので、小中の先生はいやな思いをしただろうなーと、申し訳なく……はならないな。(うん嫌いな人の方が多くてね!)
漂流しているというのに、「帰ること」ではなく「島の運営」をまず考えること、大人・子供にかかわらず、とにかく賢い人間が方針を立てること、時には正攻法ではなくルールをぶっこわす方法も選択すること。ひょうたん島は社会。
あと、このリメイクは伊藤悟氏というひとりの熱烈なファンがいなかったらあり得なかったと言うことを知り、「オタクってのは究極そこまでやって良いんだ」と思ったこともその後のオタク人生に多大な影響を与えていると思われる。

小沢健二

色々書いたけど結局書きようがなかった。きっかけは音楽だったけど、14歳の私は、小沢くんを知って初めて、この世界に文化があることを知った。大げさでも何でもなく。
構成要素を書き出してみて、そのうちの半分以上を「元を質せば小沢くん」という理由で消した。ANNを聞いたのも、Oliveを読んだのも、他のバンドを聞いたのも、アメリカの小説を読んだのも、ポールスミスに憧れたのも、服の趣味も、とにかくなんもかんも、小沢くんがきっかけで、その中からさらに好きになる物がみつかって、とにかく私の「好み」の根本はすべて小沢くんだ。襟だけ白いストライプのシャツなんて、小沢くんを知らなかったら一生手に取らなかった。

古今和歌集

最後まで悩んだ。これを入れるか、資生堂FSPにするか、福音館の「たくさんのふしぎ」にするか。もうほんとーに悩んだ。「なるべくかっこつけない」がルールなのに、これが入ってると高尚ぶってると思われそうなのもイヤなんだけど、しかしこれはやっぱり外せなかった。正岡子規だいっきらいなのも要するにこの本故だし。
そもそもは高校の夏休みの課題で古今集と新古今それぞれ5首好きな歌を選んでこい、といわれたので初めて手に取ったのだけど、あまりに良い歌ばっかりで、古典とか考えず普通の本として好きになってしまった。ちなみにその後、新古今読んだら全然琴線に触れなかった。
そして単純に歌の良さもさることながら、歌われていることがあまりに共感できて、人間て千年経っても同じことで悩むんだな、と思った。つまり、愛とか恋とか死とか別れとかは、私一人分の人生で答えが出るわけないんだ、千年前から同じことで悩んでる人がいるんだから。そういう時間軸を知った。
オードリーの若林氏が岡本太郎のことを友達だと思ってて太郎ちゃんと呼ぶ、と言ったとき、ものすごく共感した。私も、みつね*1が今生きてたらぜったい良い友達になれる!と思っている。あの根暗なところが気が合いそう。
今、折に触れてその場に合う短歌やら俳句やら詩やらを思い出すのが好きなんだけど、それを最初にやったのも、古今集の「雲のはたて」の歌だった。前のブログの名前もこの歌からとった。詩歌との距離を縮めてくれた本。

*1:凡河内躬恒。馴れ馴れしく呼んでいるが三十六歌仙の一人