暮れの元気なご挨拶

まだ数日あるけど、実家帰ったり色々あるので久しぶりに今年の振り返り(と言いつつ半分以上Xの悪口になったのでXをこよなく愛している人は読まないほうがいいと思う)。

Twitterをやめた

1/13の昼間に突然featherが使えなくなったのが全ての始まりなので、もう1年経つんだなぁ。1年経っても完全にやめられていないあたり、依存症というのは意志の力でどうなるものでもないというのがよくわかった。
もうだめだとなってtrickleに登録したのが1/20。今日の時点でアクティビティが1400ちょいなので、1日3、4回はtrickleなんか書いてることになるな。思ったより書いてた。
1年弱の間にTwitterはXになり、インプレゾンビが湧き、もうどう考えても良い方向には行かないだろうし世の中を悪くするばっかりだろう。アカウントは消していないけど、Xを見なくなってから、単純に不快なものを目にすることがなくなってストレスが減った。そして後述するが、ブログの書き方を思い出したのが何より良かった。
なのでもうXには戻らないけど、多分そのうちチケ発を知らずに買い逃す事態が起きると思う。これはもう間違いなく。相変わらずどの公式もXでしか情報を出さない。
チケットを買い逃した時、Xを見ないことによる多大なるメリットと、一回の絶大なデメリットを天秤にかけてちゃんと前者を取れるか不安ではある。
いっそXが完全有料になって、各公式が全部LINEでツイートと同じこと発信してくれないかとずっと思ってるんだけど、茹でガエルなのか、なんか企業にそういう動きが全然ない気がする。Blueskyにも出版社とかあんまいない。
「情報発信」=「ツイートする」の時代は楽で良かった。情報出す方も受け取る方も。でももうその時代は終わったと思うのだけど。

ブログの書き方を思い出した

Twitterは、どんなことであれ必ず自分より詳しい人がいる場所だった。もちろんいわゆる「野生のプロ」がいるのが面白いところでもあったのだけど、自分より詳しい人からツッコミが入ることが前提だと、曖昧なことが書けない。そして今はググれば大抵のことが出てくる。なので、不確かなことは調べてからツイートしていた。
でも、何かの感想を書くときって、「私はこう思った」「私はこう感じた」という、いわば誤読と誤解が全てであるように思う。不確かな部分を無くしてしまっては、事実を羅列するだけになり、そんなのはわざわざブログに書き残すほどのことではない。後から読み返しても何も楽しくないから。
さらに今のXは、「詳しい人からツッコミが入る」というギリギリポジティブな不自由さではなく、「まるでXが自分の部屋かのように我が物顔で振る舞い、自分の尺度だけで他人をジャッジする」というネガティブ極まりない攻撃が罷り通る場所である。そんなところで不用意に不確かなことや主観で思ったことを書きたくなるわけがない。
そうやって、ここを曖昧にしたら誰かからつっこまれるかもしれないからやめておこう、こう書いたらこう思う人がいるかもしれないからやめておこう、と思うことが癖になってしまうと、Xに投稿しないことに関する思考までもがものすごく窮屈になる。なるというか、なっていたことに、Twitterをやめて気づいた。
TwitterをやめてからあちこちのSNSに登録したのだが、どこに行ってもTwitterに疲れ果て、そしてTwitterでの攻撃を避けるための振る舞いや思考が、自分のTwitter外での振る舞いや思考にも良くない影響を与えていたと吐露する人が必ずいた。
もうこうなると、人間は愚かとか言うのではなく、Xという場が悪いとしか言いようがない。最近またブログを書くようになって、同じことをXで書いたら面倒なことになるかもなーと思いながら書いていることはたくさんある。でも、それがXのポストだと自分の尺度に照らして激昂する人も、ブログに書いてあると「この人はこう思うのね」で済むんだと思う。そうとしか思えない。
Twitterの短文に慣れ、読書量が激減したせいか、また気軽にブログ書こうと思ったところで狙った言葉が全然出てこなくなっていることに気づいたりもしているけど、まぁその辺は頑張るしかない。

コロナに罹った

7月の話。どこが症状のピークかわからないのがとにかく怖い。私は結局喉は痛くならなかった。もう罹りたくない。
ギリギリでゾコーバが無料の時だったので処方してもらった。比較のしようがないが、2日くらいで「なんか急に体内で悪さしてるウイルスが減った気がする」と思った時があった。あれはゾコーバのおかげなんじゃないかと思っている。
ゾコーバ、話だけ聞いてた時は「24時間症状縮めるだけに5万て」と思っていたが、とてつもなくしんどいときの24時間にはその価値がある。私は次罹っても(罹りたくないけど)ゾコーバ飲むわ。3割負担で1万以上するらしいけど!

献血に1回しか行けなかった

大体年初と夏にやってるんだけど、コロナ罹ったのと健康診断で白血球の数がひっかかったので夏にできなかった。血管が細くて成分献血ができないので、全血1回できないと大損した気分である。

チケ戦に負けた

華大どんたくのチケット取れなかった……。母数が多いチケットの戦い方がわからない。

生きてたらもう一度見られるものがあるんだなと思った

FKDの合同コントとツィンテルのコントのこと。
私はそもそも「推し活」というものには懐疑的通り越してやらないで済むならやめとけくらいの考えなんだけど(こんなもんは業である)、所詮全て人の人生見てあーだこーだ言ってる他人事なんだから、悲しみすぎても喜びすぎてもいけないのかなと最近よく思う。

似合う服が変わった

10数年ぶり3回目。最初はもう思い出せないくらい昔だが、突然シルバーアクセサリーが似合わなくなって、ゴールドが似合うようになった。その次は、これまた突然Vネックが似合うようになった。そして最近、Vネックが前ほど似合わなくなっている気がする。怖いのでまだ全部は確かめていないが、確実に似合わなくなってるのがある。
ただ、これが本当にこの数ヶ月で起きていることなのか、コロナになって3年間、ほぼ部屋着で過ごし、ろくに服を買わなかった間に起きていたのかはちょっとわからない。最近出掛けるようになって、なんか……となっていたときに、たまたまLe pivotというブランドに出会って試着したら、ものすごく久々に「うわ、すごいかっこよく見える」という服に出会った。そしたら、手持ちの服が似合わなくなっていることに気づいた、という順序なので。
あと、前回の突然Vネックが似合うようになったタイミングで、「綿のニットなんて暑くて着てられん」と麻ばっかり買うようになったのだが、今回は「ウールのロンTって良いじゃん」ということに気づいたタイミングでもある。

節約という考えが浮かぶ

前項に関係あるのだが、ちょっと服を総とっかえすることになるかも知れず、そうなると節約しないと金がない。
私は遣った金をかなり正確に記録するのだが、それは節約のためではなく、自分が後いくら遣えるのか正確に把握し、最後の1円まで遣い切るためなので、基本金が余るということはない。
しかし、今すでに汲々としているのにさらに服を買うならどっからか捻り出さないとなるまい。
来年は細々した消費を抑え、それによってもしも余った場合、別のシートで管理して(iPhoneにデフォルトで入ってるExcelみたいなアプリを使っている)貯まったら服買って良いことにしたいと思っている。できるかはわからない。

今年を振り返ろうとすると来年はこうしたいなばかり浮かんでくるのでこの辺で。良いお年を。