ドゲンジャーズハイスクール第7話

nico.ms

しみじみ良い話だった。7話!

エルさん回で、テツ回で、ウザギちゃんのみならず影ちゃん回。
先生回があったので、テツさんを掘り下げることにはそこまで驚かなかったのだけど、まさかウザギちゃんと影ちゃんにこんなにスポットが当たるとは。ほんとうに当代随一の誰一人として損をさせない脚本家だよシャベリーマンさん。

エルさんとおやっさんの、心から人の善性を信じてまっすぐすぎるくらいまっすぐなところ、ほんとうにいいよなぁ。小賢しさの全然ない、ストレートな思いやりがいかに大切か。気を回しすぎて何もできないよりずっと人に届く。こういう衒いのない人情を見せてくれるから、八幡建設さんが出てくる回は好きなのよ。

クラスメイトと先生に見られながらの変身、激熱だったな……。特撮と魔法少女のいいとこ取りというか。歩きながらのクールな変身かっこよかった。またその後の戦闘中も、明峰ちゃんと先生は心配そうなところが良かった。毎週一人ずつ好きにさせてのこれ、グッとこないわけがない。
「後輩です!」の一言で納得&信頼しちゃうエルさんもよかった。来週の人は大丈夫かしら(笑)。

今回はすごいなぁと思ったところが二箇所あったのだけど、一つが、テツの「そこにはなんの物語もなかった」という台詞。物語の中でこれを言うのかー!
なにか自分が納得できるストーリーがあれば、無くても無理矢理作ることができれば前に進めるのに、それもできなかった虚しさと、物語の強さをあんまりにもさらっと言い表すから唸ってしまった。

もう一つは真子ちゃんが大輔くんに向かって(心の声で)「あなたの方がかわいいー!」と叫んだところ。

3期は2期に比べてわからないことがない、と書いていたけど、実は最初からずーーーーーっとわからないことが一つあった。わからないのだけどどう書いて良いのかもわからず、めちゃくちゃ見当はずれのことを書くことになるかもしれないし、最終話まで見たらわかるのかなと黙ってたんだけど、この台詞で、「あ、これは最終話まで見たところで私に推し量れる底の深さではないわ」と思ったので、もう書きます。

なんでドゲンジャーズハイスクールの世界は、こんなに男女平等なんだろう。

「この物語はジェンダー平等に配慮しています」という作品は、だいたい視聴者に目配せがあるものだ。たとえばドゲハイがそういうのを意識して作られた作品だったら、真子ちゃんのクラスメイトの女の子が制服でスラックス履いてると思う。この物語は現実の不均衡を意識し、それに抗い、理想とする世界を描いていますよ、という導線がある。
でもドゲハイにはそういうサインがない。なんの説明もなく普通の福岡ですという顔をして、ガワがうろうろして女の子のヒーローが活躍する。女の子であるという説明もなしに。
真子ちゃんが女の子であることにとらわれない主人公であること、女体を強調されない変身姿であること、女子高生の書き方があまりにフラットなことには何度も感動していたけど、そもそも、女性に対して(それが未成年であろうとも/未成年だからこそ)男性の眼差しが一切感じられないフィクションって、完全に女性向けで女性が作ったものを含めても私はほんとうに少ししか目にしたことがない。
女の子を描いているのに、そこに男性の眼差しが感じられない。あまりにもストレスフリーで見られることに、私は逆にずっと戸惑っていた。要するに脚本を見ただけでは、この物語を、
ジェンダーに配慮した男性が書いているのか
・かつて女子高生だった女性が書いているのか
・女の子になってセクシービームを撃ちたい成人男性が書いているのか
さっっっっっっっぱりわからないのである。こんなことは今までになかった。シャベキャス聴いてるから三番目だってわかるだけだ。

今までもそうだったら戸惑わないのだけど、1期と2期は、現実と同じくらいだった。最後は長刀振り回していたけどゆきちゃんは守られるヒロイン、アイドールちゃんは悲運の女幹部の範疇にとどまっていた。
2期はウザギちゃん以外ほんとに全く女がいなくて、それは現実のローカルヒーロー界隈の男女比からして無理からぬことなのだろうけど、この年になると「女性がローカルヒーローを続けることに男性より困難がある」ということ自体に社会の傾斜を見てしまうので、それをそのまま引き写したフィクションにも傾斜を感じる。
とはいえ3期も正面切ってジェンダー平等に配慮してるとも断言できなくて、ナンパが加害かというのは見る人によって差があると思うけど(私はアオイロンのときは全然気にならなかった。未公開シーンのシャベさん見て、ちょっと気になったくらい)配慮を優先するならわざわざナンパシーンは入れないんじゃないかなぁと思う。
でもそれを「男女差別だ」と批判したいわけじゃない。もっというと、自分の価値観が先進的で正しいからジャッジしてやろうなんて考えているわけでもない。日本社会でここまで生きてくる間に、女であることの不利益と理不尽さに打ちのめされすぎて、フィクションでまで嫌な思いをしたくなくて許容できるものがものすごく狭くなってしまっただけだ。たまたま「女」という、性別において足を踏んづけられる側だったから、その痛みがわかるだけで、自分の属性以外の痛みには無頓着だし、知らない誰かの足を踏んづけているとも思う。

もしも「普通に書いたらこうなっただけですよ」と言われても、そんなことできるのか⁉︎と言うと思う。若い会社の若い人が作る作品だから、も理由になると思えない。ものすごく才能があってものすごく若い人の舞台を見に行ったら、当然のように「女は結婚したら性別を変える」という前提で話が進み、座して待ってて時代が変わるならそりゃ先人はあんなに苦労してないよなと思ったことがある。
価値観の話なので、脚本家の力量を信じているのとは全然別の次元のことで、意識して現実の不均衡を均そうとする努力なしに、この日本で、フラットなフィクションが作れるとどーーーーしても思えない。社会がそれだけ歪んでいるから。フィクションの中でこそ、男性の眼差しに晒されきた女性を見てきたから。私自身が、男の男による男のための少年漫画を読んで育ってきたから。

真子ちゃんが「あなたの方がかわいいー!」と言ったのを聴いて、全然驚くようなシーンじゃなかったのに度肝を抜かれた。視聴者としても、読者としても、私にはこの台詞、全く想像できなかった。
歪な社会とフィクションに腹を立てるほどに、私もそれに囚われている。私は「フィクションの中で女の子は男の子にかっこいいというだろう」と思っていた。女の子が真子ちゃんで、男の子が大輔くんなら、「かわいい」は至極当たり前なのに、それよりも「女の子」「男の子」のステレオタイプに引っ張られたのだ。

最終話まで見たらわかるのかと思っていた。でも、最後まで見たところで、画面に映ったものの中から私の理屈に合う材料を探す以上のことはできず、この物語に貫かれる精神、若しくはそんな精神全然ないのかは、私にはとてもわからないだろうと思った。あの一言で。

ドゲハイを見て毎週「どうしてこんなにフラットに描けるのかわからない」と思い、終わるたびに「今週もがっかりしなかった」と思う。喜ぶより先に戸惑う自分に、私はここまでフィクションに希望を持つことを諦めていたのかと知った。
それでもフィクションに救われてきたから、現実がどれほどしょーもなくても、虚構によって未来を照らし、いつか現実もこうあれと希望を持たせてくれるのは、やっぱりフィクションだから。

現実に失望しすぎて、フィクションにも失望しすぎて、ガイドなしにフラットな物語を見せられてもすっかり疑心暗鬼で見方がわからなくなっていた。わからないまま最後まで見るのだと思う。勝手に期待して勝手にがっかりするのだけは嫌だから、ただ、すべての登場人物が自分らしく活躍する様を楽しみに。その点については、価値観がどうとかすっとばして全幅の信頼の置ける脚本家が書いているから。

そんな脚本家と兼業の人がラストでびっくりしてましたが、金印をほんとに福岡市博物館から盗んでいたことにも驚いたんだった。いやそうだよね見てきたけど、ど頭に「どやっ!」と言わんばかりに展示されてるの見たけど。
なんか勝手に、ドゲの世界の福岡の金印はどっかの遺跡にあったりしてそういうとこから盗んできたのかとなんとなく思っていた。展示物……展示物にあのすごいパワーが……いやそうなんだけど……。
アジトのシーンは今週も全部最高に可愛かった。

画面外の覚書

youtu.be


なんと言っても放送当日の、ピザクックさんとキューサイさんのコラボ企画が羨ましかった。
ドゲンジャーズ経済圏まじうらやま。


ドゲンジャーズミュージアムでの撮影会が始まり、個室撮影会で大変なことになっている様子がTwitterから伝わってきた。修羅様とメイド執事さんの回に行く人大丈夫かな。

花束アクスタが発売されて、通販サイトはメイド執事さんと修羅王丸様が早々に売り切れていた。