6ヶ月後

浜浜が解散した2日後(2015年12月16日)に書いて、書きかけのまま下書きに入れてあったエントリがあった。このときはまだ、ザンゼンジは解散していない。6人のライブ(仮)から武田さんが抜けた「3組のみ!」を見終わった直後の今上げてみる。


*     *     *


解散って、失恋と葬式がいっぺんにくるみたいなんだな。相手の幸せを願うのは失恋みたいだけど、残される側がちぎれるほど悲しむのは葬式みたい。

では やはり
ちぎれるほど悲しむのは
残されるこちらの方なのだ

と言うネームがなんの漫画だったのか、ここのところずっと考えててたった今思い出した! 「金魚屋古書店出納帳」の河童の三平の回だ! あーすっきりした。今市子先生の作品だっけとか思っていた。
この間書いた関東大震災の短歌は相変わらず思い出せない。
思い出せないと言えば、「おじさんちはいもの一個もくれやしないじゃないか!」と言う台詞がなんの漫画だったのかもずっと思い出せない。かれこれ5年以上思い出せない。10年かもしれない。その前のコマは「もうすぐ戦争に行っていた男たちが帰ってくる。そうしたらおじさんが婿を世話してくれるから……」だったと思うんだけど。頭の中ではここから「うしおととら」のお外道さんの回につながってしまうんだけどたぶんそれは間違ってる。


急いで回復する気にもならなくて、ひとりになって口を開けばあーつらいあーしんどいしか言っていない。ネガティブ振りまいてもわるいのでツイッターは使わない。14日以降の自分のテンションが読めなくてあまりライブを入れてないので写真上げる用事もないし。こういうときはフィクションと仕事に救いを求めてただひたすら時間が経つのを待つしかないのは知ってる。つまり残業して漫画読んで寝る。これも失恋と同じ。

失恋したのに無理に元気を出そうとするのは、まだ青いバナナをレンジに入れて黄色くしようとするのと同じ

それで先人の言葉に頼る。同じこころのじごくを通った人の言葉に。これは吉本ばなな著『ハチ公の最後の恋人』で読んだ言葉。

わかれ

ヘリベルタ・フォン・ポシンゲル

ふたりを「時」がさきしより、
昼は事なくうちすぎぬ。
よろこびもなく悲まず、
はたたれをかも怨むべき。


されど夕闇おちくれて、
星の光のみゆるとき、
病の床のちごのやう、
心かすかにうめきいづ。

上田敏訳詩集『海潮音』より。自分が失恋の当事者じゃないときにこの詩を思い出したのは初めてだな。昼はかろうじて普通にして働けている。ただ夜はつらいね。まだ夜2回しか来てないけど。


相問歌と言えば横山未来子さんで

見えぬゆゑ未来はやさし花揺るるあの角までをいま君とゆく

『樹下のひとりの眠りのために』より。この間やさしい雨の単独の感想で引いた歌を、全然違う気分でまた引用することになると思わなかった。
先が見えないのが一番つらい、どんなに先でも何年後に売れるとわかっているならそこまで頑張れる、とは芸人さんがよく言うけど、先が見えないからこそ、続けられたということはあるんだろうな。13年目で辞めるよと言われていたら、4年前にきっと辞めていただろう。私が見たのは、浜口浜村が角から角を曲がるまでの短い道行だったのか。でもそんなこと見ている時にはわからない。
てか4年前、芸歴10年行ってなかったのか。今気づいた。東京来てからはたった3年。やっぱり天才は色々と判断が早すぎる気がするよ。
ああいう人たちの1年は重いのかもな。考える時間も多かろう。ルーチンワークに追われるサラリーマンの10年はあっという間だけど、無邪気に次の10年を信じすぎてるきらいはあるな。自分は確実に年をとるのに。

宿題

辻征夫

すぐにしなければいけなかったのに
あそびほうけてときだけがこんなにたってしまった
いまならたやすくできてあしたのあさには
はいできましたとさしだすことができるのに
せんせいはせんねんとしおいてなくなってしまわれて
もうわたくしのしゅくだいをみてはくださらない
わかきひに ただいちど
あそんでいるわたくしのあたまにてをおいて
げんきがいいなとほほえんでくださったばっかりに
わたくしはいっしょうをゆめのようにすごしてしまった

たまに芸人さんであと100年でも同じこと(ギャンブルとか)してそうな人もいるけど。


*     *     *


ここから2016年6月15日。「3組のみ!」には、「6人のライブ(仮)」のお弔いだと思って行ったのだけど、ちゃんと楽しく、なにより舞台上から常に「6人のライブ(仮)」を知らない人がいるかも知れないと気にかけ続けてくれるあの感じが、私が「6人のライブ(仮)」で一番好きだったところそのままだった。そうか、「6人のライブ(仮)」のよいところは、「6人のライブ(仮)」と言う括りから自然発生したのではなくて、あの舞台上にいたあの6人が作り出していたのか。そんな当たり前のことが今更わかった。
「6人のライブ(仮)」が好きだった。あの6人が作るライブがあんまりにも楽しくて、それが確かさを持つから括りがあるのが嬉しかった。括りを好きになりすぎて、括りがなくなったことが悲しすぎて、中の人を見たら悲しいんじゃないかと思ってしまった。本末転倒だ。
もうすぐお笑いブームが来るらしい。そこかしこで密やかに聞こえる。お笑いブームが来たら、たぶんこういう括りとか、物語とかに、過剰に思い入れを持つ必要も余裕もなくなるのだと予想する。そんなことで強化しなくても、色んなものがうまく回るようになるんだと。それはきっととても健全なことだ。別に今、無理して不健全なことをしている訳じゃないけど、ただ単に私は物語が好きだったし、彼らに未来を見るのが好きだった。単にそう言うタイプのオタクなのだ。めんどくさいとも言う。でももうそう言う季節じゃないのだ。




この2つのツイートでびっくりするほど気が楽になった。さすがプロだなぁ(石田さんは宗教家という意味でも)。なにを重苦しく考えていたんだろうねと呆れるけど、それほど悲しかったんだよと自分を擁護したい気持ちもある。でももう気楽に行けばいい。おもしろいものを見に行くんだから。

失ったもの、与えられなかったものを思って、嘆くのはやめよう。

北村薫『スキップ』より。