浜口浜村

2010年9月15日の新宿LLLIVEで浜口浜村を初めて見た。空手のネタだった。
2011年の7月に無期限の活動を休止を発表して*1、3ヶ月後に復帰。
2012年にバイタスで1年かけて「自主ライブくん」をやった*2
2013年の10月2日の悠々自適から衣装をスーツにした。*3
2014年の下旬に、認定漫才師になれなかったら辞めると言う噂が流れ、
2015年12月14日の今日、ほんとに解散してしまった。


こうやって書くとあやういコンビだったように見えるだろうか。私は、一度だって、薄氷を踏むような気持ちになったことはなかった。2014年のはちょっと焦ったけど。
浜口浜村は、いつだって、どんなライブだって、そのライブでやる意味のあるネタをかけてくれた。復帰したときには終わらないRPGのネタをやった。小宮さんが脚を折った直後には「足首に違和感」をやった。THE MANZAIの1回戦の前の日にはコントをやった。一度だって漫才に手を抜くところを見せなかった。同じシリーズのライブでは同じネタを二度とやらなかった。
こんなに漫才を愛して、漫才に真摯な漫才師が、いつか漫才から愛されないわけがないと思っていた。


1995年に小沢君の武道館に行って以来、かれこれ20年ライブに行き続けているけど、何かの魔法でもう一度なにかひとつだけ見せてあげるよと言われたら、私は「浜口浜村の自主ライブくん さよなら自主ライブくん編*4」を選ぶ。何度も書いているけど。
あの時のバイタスは、1年をかけてやった漫才ライブと、人形劇と、ゴミ拾いと、10年分のネタが綾を成す四次元のアミューズメントパークだった。こんなすごいものが作れるのか、ふたりきりで、この狭い空間で。なんでたったこれだけの人数しかこれを体験していないんだろうと思った。
20年、30年、40年と、これを見るんだろうと思った。歳を重ねていく漫才師だと思っていた。信じると言うより、そう言うものだと思っていた。こんなすごいものを作れる人は、ずっと作り続けると、そう言う星の下に産まれたんだと思っていた。


でも、浜口浜村自身に夢や希望を託していたわけではなかった。元々自分の人生においても夢とか持たないタイプなのでそういうことを具体的に考えるのが苦手というのもあるのだけど、浜口浜村に関しては特に、彼らはそのままで、周りが変わればいいんだと思っていた。
いつかもっとたくさんの人が浜口浜村の名前を知って、そうなってやっと、彼らのやっていることと規模が釣り合うんだと思っていた。どんなに先でもその日は絶対に来ると、その日まで、この国の漫才史から浜口浜村の名前が消えるなんてことを、私は本当の意味ではちょっとも考えたことがなかった。
だからいま、その考えていなかったことが現実になって、浜口浜村を浮かび上がらせることが出来なかったお笑いというものを、これから先どんな期待を持って見ればいいのかわからなくなってしまった。
浜口浜村は私の夢でも希望でもなんでもなかった。でも、彼らがいなくなったら、今まで見ていた世界が欠けるのではなく砕けてしまった。


12月に浜口浜村のライブ予定が入っていないと聞いてから、数週間、泣き暮らしていた。夢の中で二人を抱きしめて号泣したりしていた。それでも嵐が吹き荒れているのは私の部屋の中だけで、世界はこんなに静かに浜口浜村を失うのかと思ったら家から出るのが怖かった。昔教科書で読んだ、関東大震災の時に地上が壊滅しているのに月は変わらず昇っていると言う短歌を思い出したいのに全く思い出せなかった。
今日のライラックブルーのED、みんなの告知が終わって、ツィンテル浜口浜村が、じゃあ……と緩慢に前に出てきたときも、こんなにもひとつづきなのかと思った。相変わらず舞台はまぶしくて、周りのみんなは笑わせようとしていて、客席が水を打ったように静かな他はいつものライブのEDみたいだった。浜村さんの髪が伸びきっていないのは、今この瞬間があの楽しかった単独からの続きだということを明らかにしていた。
ひとりずつ(特にガクちゃんが)時間をかけて各々のことを話したツィンテルに比べて、浜口浜村は僕らはいっぺんで……と前置きして、浜村さんがひとこと「限界だと」と言い、浜口さんが「はい」と言った。
浜口さんが、ちらっと、M-1も痛かったね、と言ったのがつらかった。今年のM-1より、浜口浜村の漫才の方がずっとずっと大事だと、伝わってなかったんだなぁ。
浜村さんが浜口さんを指差しながら、誤算でしたよ、13年お笑い好きにならなかったんです、と言って笑った。浜村さんは浜口さんをおもしろいと、最後まで言っていた。ミラクルでの単独*5で、浜村さんが浜口さんのことを「その変なおもしろさに、僕はずっと憧れています」と紹介していたのを思いだした。


ここ何回かの骨ライブと3組のライブには行っていなくて、きっかけはネタの好みだけではなくて浜口浜村の主たる客層から自分がずれたとはっきり感じたからだった。でもそれはいいことだと思っていた。客が入れ替わることも、若いファンが増えることも。それでも時々ネタを見たり単独に行ったりして、このネタは好きだな、とか、この感じの先を見たいな、とか、年を経る変化に対して距離を取ったり詰めたり、そんな風につきあっていくんだと思っていた。
浜口浜村の漫才に限界を見た事なんてなかった。すべて漫才の為の試行錯誤だと、長い芸歴の中で年齢と共に変わっていくことがたまにうまくかみ合わなくなることもあるんだろうと思っていた。
この間の単独で見たあの素晴らしい「無人島に持っていくなら」を、私は結局何回見られたんだろう。1回か、2回か。
今日のネタは「牛」だった。浜村さんが自身のお笑い観を捲し立てながら、所々で浜口浜村の歴史をまとめようとするからずっと泣きながら笑った。かろうじて覚えているのは、浜口浜村のネタは1247本1274本あると言うこと(12/25訂正)。浜口さんは困りながら、途中で一回本気で笑っていた。浜口さんはライブの間何度も、こぼれるような笑顔を見せた。



なにがどうなろうとせめて手紙くらい書きたいと、昨日は一日頭をひねったあげく日が変わる頃にようやく便箋に書き始めたのだけど、言うべきことなんて大好きですしか思いつかなかった。どうしてほしいなんておくびにも出せるわけがなかった。
ほんとうに、ほんとうに、ほんとーーーーになにもできなかった。見るだけの客に何ができるなんて元々これっぱかしも思ってない。それでも、どのライブでも愛されていた浜口浜村が、それを続ける動機にできないなら、もうほんとうにライブの客にできることも届けられることも皆無なんだと思い知った。
座・高円寺で単独ライブが出来る芸人が、K-PROさんでユニットを持っている芸人が、自主ライブでバティオスを埋められる芸人が、都内に何組いるというのか。
それでも、鳴り止まない拍手をすれば、もう一度出てきてくれると教えてくれたのは他でもない浜口浜村だった。「さよなら自主ライブくん編」の最後、「お笑いライブでこんなことありますー!?」と言いながら出てきた浜口さんの困ったような笑顔を今でも覚えている。この先もずっと覚えている。


復帰したとき、今度は竹刀を握れなくなるまで剣道をするって言ったじゃないか。
この間の単独の後、パートタイムジョブしなくても良いようになりたいって言ったじゃないか。
ラクルでの単独の時、「頼むから、大器晩成であってくれ」と叫んだじゃないか。


責めているんじゃない。その全部を疑わなかった。共白髪の浜口浜村の漫才を見るんだと思っていた。
繰り返すけれども、浜口浜村は、私の夢でも希望でもなんでもなかった。
ただ、ずっと浜口浜村の漫才を見るんだと思っていた。