団地は団地

わが星
6/10 三鷹市芸術文化センター 星のホール 19:30


ネタばれです。今回の公演は終わりましたがこの先も再上演があると思いますので、未見の方は読まないでください。


他人の絶賛を根拠に行ったものはあまり琴線に触れない(ご飯屋を除く)と言う経験則があります。絶賛を目にして、HPなりチラシなり見て、公演そのものへの興味が「○○さんが褒めていた」と言う興味を上回ったら別なのですが、絶賛への興味が上回ったまま行くとだいたいあーはまんなかったピンとこなかった、と思って帰ることになるので最近はむしろ絶賛されているものにこそ慎重です。「ビルのゲーツ」もそれで行かなかった。
三鷹でやっていた「わが星」は、そらもう絶賛の嵐絶賛しか見たことないというお芝居で、あんまりにもみんなが口をそろえて絶賛、しかも何年も前からとなるとその公演への興味か絶賛への興味かもう区別することも難しく、とりあえず見ないとわからんかと行ってみました。結果としてはピンとこなかった歴更新で、やっぱりかぁ。
しかしがあんなにも多くの人があんなにも褒めているものがはまらなかったと言うのはたいへんに勇気がいりますね。
朝日新聞鷲田清一氏の連載の言葉を借りると

わからないけれどこれは大事というものを摑(つか)むこと。「わかる」の意味はそこにある。「なんだかまるで分からないけれど、凄(すご)そうなもの」と「言っていることは整合的なんだけれど、うさんくさいもの」を直感的に識別できるようになれば、それだけで大学で学んだ意味はあるとも、思想家の内田さんは言っている。
朝日新聞連載「折々のことば」第20回より)

たぶんあのお芝居を好きな人からすると、私はあの「凄そうなもの」の「凄さ」がわからないぼんくらになるのだと思います。わからないからつまらないというのではなく、凄いと思えなかった。やってることのひとつひとつが凄いのはわかる。特に別の人が同じ人を次々演じるのなんか、これは漫画ではできないナァと感服した。
でもあの物語が私の胸に何か凄いものを残したりあるいは凄いものを持ってったかと言えばそうではなかった。いい年して恥ずかしいのですが私は死ぬのがとても怖くて、見終わった時、その気持ちが怖くなくなる方にもより怖くなる方にもまったく振れていなかったので、やっぱりこの物語は私に何も残していないんだと思います。そもそも、あれは物語なんでしょうか。


中盤でもうだーだー泣いたのですが、これは私が団地育ちの姉妹の次女で、母親が専業主婦で、二段ベッドだったことがあって、幼馴染がいて、東京の雑踏で旧友に再会したことがあって、団地への道をたどりながらこれまで何万回ここ通ったんだろうと思ったことがあって、最近東京に出てきたからです。
観客の中に私と全く同じ出自の人はまずいなかったと思いますが、あちこちから鼻をすする音が聞こえて、たぶんどの人もどこかの場面に、自分の人生における何かしらの体験や感情、ケーハクな言葉でいえばツボを刺激されて泣いていたんだと思います。


大島弓子のエッセイ漫画(たぶん「サバの夏が来た」)の影響が多大なのですが、私は何かを見たり読んだり聞いたりする上で「有機的で、個人的で、感情的」なことが垣間見える瞬間が一番好きです。でもそれは書き手や演じ手や歌い手の「有機的で、個人的で、感情的」なことです。虚構の物語の中に書き手の指先が現れるような、別の人を演じているのにその人にしか見えないような、別の人が書いた歌詞をわがこととして歌い上げるような。お笑いもそうで、同じボケでも違う人が言うと笑う意味が変わるような、そういう瞬間。「わが星」を見て泣いたのは、自分の人生の場面場面を覗き込んだからでした。自分で自分の経験を思い出しているんだから、史上最強に有機的で、個人的で、感情的で涙が堪えられるはずがない。
自分で自分の人生を思って泣くようなナルシシズムを、舞台とかライブに求めてはいないなぁと思ったのでした。思い返して泣くには私は人生で何もしていなさすぎる。両親が踊るところで泣いたのは自分の両親の人生を思って泣いたのだし、そもそもいい年して私の人生の大部分は親からもらった人生で、最近(先々週)ようやく親の家を出たというほんとに何もなしえていなさ。まだ自分の来し方を振り返っておいおい泣いてる場合じゃないだろうと涙が止まってから思いました。
自分が家庭を持っていたら全然違って見えるだろうと思うのですが、それこそ子どもなんていたら子どものことしか思い浮かべられなくてやっぱりおいおい泣く気がします。でも子どものことを思うのは、自分が死んだ後の世界を思うことではないかと想像するので、まだ建設的です。


ひとつの劇場の中でたくさんの人が同じものを見ながらひとつとして同じもののない自分の経験や感情を重ね合わせて泣くと言うのは奇妙な体験だなぁと思いました。つまり全く別のものを見ているということじゃないのか。あのお芝居が、のぞきからくりのようにそれぞれの人生の来し方を覗き込む装置なのだとしたらとても優れた機能を搭載していると思います。
でも今の私にはその装置は必要ないなと言うのが感想の全てのような気がします。けなすわけではなくて、新居に食洗機はいらないなと判断したのと全く同じことです。何が必要かは人それぞれ、同じ人でも人生の時々で違う。
しかし、絶賛の話に戻りますが、このお芝居のタイトルで検索をかけると絶賛とともに「見るべき」と言っている人が多数いて、その人たちは「自分が感じた感動や衝撃を他の人も感じるはずだ」という確信がある、つまり、あのお芝居に何らかの普遍性を確信していると言うことで、じゃあやっぱり装置ではなくて物語だったんだろうか。私にはそれがわからなかったのでした。私以外の人があれを見てどう思うのかなんてわかるわけがない。まぁ私はアナ雪も「私は姉妹の妹だからこんな風におもしろかったけど妹でない人に勧めて良いのかわからない」とか言ってましたが。
もしもあれが物語ならば、やっぱりボーイ・ミーツ・ガールは世界を救って欲しかった。救えなくても、救おうとして欲しかったよ。