選ぶとか言いたくない

1日から5日までまるっと博多に行ってるつもりで飛行機もホテルも取ってたんですが、コロナの感染拡大状況を見て直前でやめました。
一人なら外でご飯食べてもまぁ大丈夫だろうと思ってたんですが、変異株の感染力の強さを聞くとこれ外でマスク外したらもうアウトなのではという気がしてきて、自分で考えて自分で決めたので納得してたはずなんですが。
4日になってみたらかしいかえんに行けなかったことに自分でもびっくりするくらい落ち込んで、こんなに落ち込むなら結果コロナになろうとも行ったほうが良かったんじゃないかと真剣に思いました。
そんでまぁ、私は「見たいものが見られない」ということを本当にはわかってなかったなと思ったりしたことを書こうかと思ったのだけど、何書いても拗ねてるか水差してるかにしか見えないだろうと思ったので、気持ちを立て直すために読んだ『急に具合が悪くなる』から何節か引きます。

急に具合が悪くなる

急に具合が悪くなる

確かに未来の死は確実ですが、しかし、なぜ、その未来の死から今を考えないといけないのでしょうか。それはまるで未来のために今を使うみたいじゃないですか。(P27・宮野)

数多くの「かもしれない」を無視することにも困難が伴います。なぜならこの「かもしれない」は運命論的な物語の中で示され、そこで示される数々のリスクがあたかも自分の身に降りかかるかのようにしめされるからです。(P40〜41・磯野)

不運という理不尽さを受け入れた先で自分の人生が固定されていくとき、不幸という物語が始まるような気がするのです。(P116・宮野)

不運は点、不幸は線と考えるとすっきりすると感じます。貯蔵庫が休憩中に倒れたきたのは不運だけど、それを自分の人生の中にどう位置づけるかでその意味付けが大きく変わり、不幸にも、笑い話にも、取るに足らない出来事にすることもできる。その意味で、不運は他にもありえた可能性を横一列に並べて指差すことで作られます。
一方で、不幸は起こった出来事を過去と未来の中に位置づけ、そこに意味を与えた結果の産物です。(P124・磯野)

結局、私たちはそこに現れた偶然を出来上がった「事柄」のように選択することなどできません。では、何が選べるのか。この先不確定に動く自分のどんな人生であれば引き受けられるのか、どんな自分なら許せるのか、それを問うことしかできません。そのなかで選ぶのです。だとしたら、選ぶときには自分という存在は確定していない。選ぶことで自分を見出すのです。選ぶとは、「それはあなたが決めたことだから」ではなく、「選び、決めたこと」の先で「自分」という存在が産まれてくる、そんな行為だと言えるでしょう。(P228〜P229・宮野)

ほんとうに具合が悪くなって、モルヒネを打ちながら書いた哲学者の言葉を、たかが現場に行けないだけのオタクが頼りにするのもあれかもしれない。しかしこの1年、一応命の危険に晒されて、選択とその結果を自己責任として負わされ続けた(そして現在進行形で今が過去最悪に状況が悪い)ことは、こういう知を借りないと正気でいられない事態だと思う。
私は自分で行かないことを選んだと思ったけど、その選んだ結果現れる「行かなかった自分」を想像できていなくて、当日になってあんなにずどんと落ち込んだんだなと、とりあえずそれだけはわかった。最後の引用の次には「選択において決断されるのは、当該の事柄ではなく、不確定性/偶然性を含んだ事柄に対応する自己の生き方であるということ」という文章もある。
ただ現場に行くか行かないかではなく、行った後の自分、行かなかった後の自分を肯定できるかどうかということで、単に見られなくて悔しいとかそういう話ではないんだと思う。だからこんなに悩むしこんなに落ち込む。
私の周りはオタクばっかりなので、私が悩んでるときに相談しても頭ごなしに遠征を否定されることはなかったのだけど、人によっては娯楽と死ぬかもしれない病気に罹るリスクは比べられるもんじゃないと言われるかもしれない。でも、オタクとしての自分が死ぬかもしれないなら秤にかけてしまうと思う。そうやって生きてきたんだもの。