レディエント・バーミン

レディエント・バーミン Radiant Vermin
7/17(日) シアタートラム 13:00


ネタバレです。未見の方は読まないでください。そして相変わらず足利尊氏と同じくらいの感じなので尊称がつけられない……。いつ高橋さんとか一生さんとか書けるようになるんだろう。


チケット発売前は、自分は貝原さんファンであって高橋一生ファンではないと思っていた。高橋一生ファンだと自覚したときには、チケットは売り切れていた。
HPを見る限りとても演劇らしい演劇のようだし、このお芝居を観るのがへたくそな私が見てもネェ、良さがわからないだろうしネェ、彼は舞台に出続けたいようだから来年あたり見る機会もあろうしネェなどと言い訳できていたのも数週間。ニワカ生活のあまりの楽しさに、どう考えても私人生で今が一番彼を生で見たいだろうと、初めてチケットキャンプを見てみたんだけど、あれなんで良しとされてるの。ガンガンCMしてるから、てっきり定価以上での取引は禁じられているんだと思っていた。あれダフ屋と何が違うの。ライブ見るようになった15の時からチケットに定価以上のお金を払ったことはただの一度もないので早々に諦めていたところ、前日に電話で当日券の予約が出来ると知った。ほんとうに演劇界隈のチケットシステムの隙の無さは素晴らしい。月末まで1日100回ずつくらいはかけてみようと思っていたら、3日目で繋がってオールのライブ明けマチネという強行軍ながら見に行くことができた。下手側の立ち見で、その時は立ってれば居眠りする心配がないからありがたいとだけ思った。


舞台と客席の境のぼやけた、共犯関係を結ばせるようなお芝居だった。最初、客電がついたまま、とんとんと誰かが通路を下りてくるのも遅れてきた観客だと思ったくらい。それが主役の2人だった。二人は舞台に上がると客席に呼びかけ始めて、私はといえばタイムマシンでおばあちゃんに会いに行ったのび太くんの感想そのまんまだった。「生きてる。歩いてる!」我ながら安い。
もうねー、テレビでしか見たことない人がこの場で生きて動いて演技してるって言うこの感動。久しく忘れていた。いつも見ている人がテレビに出る感動ばかりだった最近。
とはいえ貝原さんでも、古賀くんでもなく、オリーなので、オリーと言う初めて見る人が、こんなに見たかった高橋一生だというのがとても不思議だった。声の出し方とか、台詞の抑揚とか、おおまさに見たかった高橋一生だと思うのに、同時に、オリーはこういう人なのかとだんだんと知っていく感覚。すごい、おもしろい。そうかー、俳優を好きになるってこういうことなのかー。
1時間50分出ずっぱりで、大部分をジル役の吉高由里子さんとの二人芝居。楽しかったなぁ。楽しかったなぁ。夢心地。


そんなわけではじまってしばらくは、高橋一生が動いてるわーというだけでにこにこ見ていたんだけど、序盤のスウィフト夫妻が物件を見に行くシーンからそれどころじゃなくなった。
契約を蹴って帰ろうとするオリーが、つまり高橋一生が、下手側に来たと思ったら私の立っている通路を、ちょうどひと二人分くらいの幅の通路をだーっと駆け抜けていった。心の中で「ひいいい」と叫びながら壁に張り付いていたら戻ってきて、ゆっくり階段を、1段1段立ち止りながらオリーはずっとジルを見つめていた。私が立っている段のひとつ上でかなり長いこと立ち止っていたので、40センチくらいの距離にある横顔をじっと見た。
「人間のサイズをしている」と真っ先に思って、その次に目が、思っていたのの3倍くらい大きいと思った。横顔だったので、アーモンドを縦に真っ二つに切ったような形が眼鏡の奥に見えていて、それがとても大きかった。いろんなサイズ感と距離感がもうぐっちゃぐちゃで、良い匂いがすると聞いていたんだけどそれはわからなかった。
この場面の直後、オリーはミス・ディーと契約することになるのだけど、立ち見の我々は初め断ろうとしていたオリーの翻意の瞬間をすぐそばで見た。その心が動く間、オリーがずっとジルを見ていたのを見ていた。
未知のジャンルで素晴らしいものに触れた何度か、「ここまですごければ私にもわかる」と思ってきたけど、その幸運を今回も感じた。ここまですごければ、そしてここまで近ければこの鈍い私にも、オリーの心がどう動いたのか目に見えてわかった。ライトの当たる舞台の上でジルとミス・ディーが会話をして芝居を進める間、ただただそれを見つめながら立ち見の通路に立つオリーの心が動くさま。「演じる」と言うことが、台詞とか、挙動とか、そういうことのもっと外にあるのが暗愚な私の目に初めて見えた。
善き隣人が、どうして心を動かされてしまったのか、あんなことになる端緒を、すぐそばで見ているのにつかめなかった罪悪感のようなものが残るほどに近かった。あの演出があるのによく下手側の通路まで立ち見を入れてくれたものだなぁ……。それともあの近さと言うか、観客と言う背景が必要だったのかしら。ここからもうほんとうに巻き込まれてしまった。他にも、冒頭でオリーが客席に座って近くの人に話しかけたり、ジルが客席の間を無理やり通ったり、いろんなところでいろんな人が巻き込まれていた。


引っ越してからの話は、恐ろしいことをからっと見せていて、演出もさることながら、たぶん吉高さんのあの底抜けの明るさで、そう感じたんだろうな。ジルを通して見える彼女の底知れぬからりとした陽の雰囲気。CMとかの印象で、苦手だと思ってたんだけど、直に見たら素敵だった。
ふたりが犠牲者を「リフォーマー」と呼び始めたのは、自分たちの罪悪感を薄めるためだったのだろうけど、その無機質な言葉が、観客に感じさせる残酷さも薄めさせてからからと笑いながらリフォームはどんどん進んでいく。だから、ジルがケイ(だったと思うたぶん)の名前を聞いた時、この人は助かるんじゃないかと思った。名前のないリフォーマーだから犠牲にできたのに、ケイはもう一人の人だから。
でもケイも子供部屋になってしまって、もうすっかり後戻りできないんだとわかった。あそこがこわさのひとつのピークだった。


でもなにより最後、「2倍の犠牲」に対する解決策をあっけらかんと提案するジルに、思わず口の中で「こわー」とつぶやいて笑ってしまった。笑ってしまってから、なんで笑ったんだろう?と考えてみたけど、おかしかったのではなくて、笑って何かを逃がさないといられないくらい怖かったんだと思う。

あんたのために
ということばは
いつ いかなる時も
美しくない

大島弓子「私の屋根に雪つもりつ」より

またこの言葉を思い出していた。冒頭で「赤ちゃんのため」と言い切ったふたりが、どうなってしまったのか。誰かのためと言うことがどんなに危ういのか。


カーテンコールで、オリーが客席に降りていたミス・ディーをごく自然にエスコートして舞台に上げていたのが素敵だった。キムラ緑子さんのスタイルの良いこと、身のこなしの優雅なこと。3回目のカーテンコールではオリーから高橋一生に戻って、両手をメガホンのようにして「ありがとー」と叫んでいた。上手の袖で両手を胸の前で振るのがとても可愛かった。


立ちっぱなしだったのもあるのだろうけど、終わった後しばらく足先が冷えてしまって戻らなくて、気を抜くと虚空を見つめていた。この先いつまで高橋一生を好きでも、この日ほど近くで見ることはたぶんもうない。
あの通路に高橋一生が立っている間ずっとわかっていた。この先この人を好きな限り、私は今この瞬間の私のことがずっとうらやましいと絶えず理解していたから、この先の私に何度問われても良いようにじっと見ていた。これから彼にまつわる知識が増えて、見たものよりも知ったもので判断するようになったとき、今のこの無知な私があの距離で見た全てに何度でも立ち返れるように。この半券全部捨てる私が久しぶりに捨てられなかった気持ちが全てだ。新参最高。ニワカは本当に楽しい。