2016年のゴジラ

高橋一生を見るために「シン・ゴジラ」を見に行きました。

今からそのことについて書くのですが、「シン・ゴジラ」を見ていない人には読まないでいただきたい。見る予定は1ミクロンもないという人にも読むまないでいただきたい。ほんとにとにかく一切の予備知識を持たないで、見る気がなくても見て頂きたい。
なので〆のあたりに書いてた「頼むから見てくれ」的な文章を冒頭に持ってきました。ここには決定的なネタばれはないですが、見る予定の人はここすら読まないで見に行ってください。
以下畳みますがこれスマホだと全然意味ないんですよね。






見終わった後、ゴジラになんの義理も思い入れもない私ですら、「どうにかしてこの映画をみんなに見てもらえないだろうか」と思いました。今の日本に生きているというだけで、このゴジラになにかを見ることはできる。それは、自分自身のなにかでもある。こんな体験が、(地域によるけど)近所で(舞台とかに比べたら)安価にできるのことをどうにか知ってもらいたい。人に何かを勧めるのが得意ではない私ですらこんなことを思うのだから、特撮ファンの皆さんは「どうやったらこれみんなが見てくれるんだよおおおおおお!」と暴れ出したいくらいなんじゃないでしょうか。心配です。
とにかく今の日本に住む人が、今の日本で見ることでしか得られない体験がある。見終わった後なんか逆に焦りましたもん。これ今だけだぞ!って。


私が見るのを迷ってた理由の一つに「他のゴジラシリーズを見ていない」、つまり「ゴジラについて全然予備知識がない」と言う点があったのですが、映画が始まってみたら、「映画の中の人たちが私よりゴジラのこと知らない」と言うことに一番戸惑いました。ゴジラ映画の中の世界は連続していて、映画の中ではゴジラはちょいちょいやってくる存在だと認識されていると思っていたからです。それに実際のこの世界でもゴジラ知らない人なんていないし。「ここはゴジラという概念すらない日本なのだ」と理解するのに一番時間がかかりました。
なので、特撮ファンの方が特撮に疎い人から見るのを迷っていると相談された時は、これまでの映画と「シン・ゴジラ」の世界が連続していないことを説明し、「むしろ映画の中の人の方がゴジラ知らないから大丈夫!」と伝えて、力強く背中を押してあげてほしいと思います(うちのブログを特撮ファンの方が見るとも思えませんが)。あと「SFじゃない」。


高橋一生についても、公開後から言及されているツイートの量がけた外れで、「今正に見つかってる」感がすごいのですが、早晩誰もが知る俳優さんになる人だと思うので、「いやーあの課長かわいかったわー、誰なんだろう、おおあれが高橋一生かー」と発見の喜びを感じるという点に於いても今がベストタイミングではないでしょうか。高橋一生の沼に足突っ込んで2カ月の超ニワカの言うことですけど。


じゃあ再来年あたりテレビでやるだろうから見てみよう、と思っているとしても、是非今見て頂きたい。だって再来年までに首都直下地震が来て東京壊滅して「シン・ゴジラの被害もこれに比べたらかわいいもんだったね」ってなってる可能性もあるから! やだけど! だから是非、東京が無事な今のうちに、今しか咲いていない花を見るような気持で、ぜひとも映画館に足を運んで頂きたいと思います。ものすごい体験でした。



と言うわけで以下感想です。ネタばれです。見ていない人はほんとに読まないでください。でもまず高橋一生の話。


スチールで見る限り高橋一生がナッパ服を着ているっぽいので6割がた見るつもりではいたんですが、キャストが気が遠くなるほど多いので、これ出番30秒くらいなんじゃないのといぶかしんでいました。しかし公開になった途端世のゴジラファンの皆さんが高橋一生の演技を絶賛し、まだ見ぬ高橋一生ファンに向けて「悪いことは言わないから見に行け」とエアリプを飛ばしまくってくれていたので、これを意気に感じないわけにはいくまいと行ってきました。冷静ぶってますがレディースデーまで待てなくてレイトショーで行くくらいわくわくしてました。それが7月31日(日)の話。
結果。行って良かった。ありがとうゴジラファンの皆さん。いやーーーーもうかわいかった! オタクなコミュ障気味の若者……と思ってたら文部科学省の課長さんらしい。まじか。あんなかわいい課長いるのか。しかも最後の方では上司のコネを使って外国の研究機関を説得にかかる根回しまでする狡猾さまで持ち合わせていて、ナードだと思ってたらギークでした。まぁそもそもはぐれもの集団と言ってもみんな官僚なんだから一般社会で見たらエリートぞろいだよね……。
「選ぶなよぉ……」と言う台詞にも常識人であることが透けてみえて、もうなんていうか結婚したい。オタクでエリートで課長でかわいくて常識あるってもうどんな理想のお婿さんよ。高橋一生と結婚したいなどと言う空恐ろしいことは一度たりとて思ったことはないですが(何度でも書くが距離感的に足利尊氏くらいなので尊称すら付けられない)、安田課長とは結婚したい。
いやーほんと良かった。慌てふためくさまも(「恋する総裁選」で雪野さんにキスされた時のもっちを彷彿とさせるかわいさ!)、当初の目的のナッパ服も、頬杖も、祈るような顔も、全部よかった。堪能しました。


そんな高橋一生を見に行っただけのはずの私が、見てからずっと「シン・ゴジラ」のことを考えてしまっています。どうしてももう一回見たくて今日二回目を見てきました。ゴジラ映画は見たことなくて、モスラの第一作と、ガメラをいくつかは見ている気がします。エヴァはテレビシリーズと最初の劇場版はリアルタイムに近いくらいで見たけど、あんまよくわからなかったです。
そんな私ですが、いやもう見られてよかった。すごく励まされるお仕事映画でした。そして観客として、とても稀有で幸せな体験をしました。


ゴジラがもうとにかく怖くて怖くて。まずあのエラ呼吸してそうな時の顔! 怖すぎる! 形態変わってからもでかいし目的もわからないし、あの米軍の攻撃の後のレーザーみたいなのを放った後はもうほんと絶望しかありませんでした。こんな強いの2時間で倒せるわけないじゃん……と何度も腕時計を見てしまいました。映画見ててこんなこと初めてです。
そう、あれが倒せると全然思わなかった。先が全然見えなかった。これはもう日本滅亡エンドもありだろうと。
ほんとうに怖い、こんな怖いものが出てくる映画見たことない、と思って、1954年の観客が見たゴジラってこういうものだったのかと突然理解しました。東日本大震災を経験し、今も続く福島原発の事故のただなかにいる我々用のゴジラがこれなのか、私がこのゴジラ地震津波福島原発を見るように、当時の人たちはあのゴジラに原爆や空襲を見たのかと、今まで考えたこともなかった「ゴジラ」と言うものの意味がいきなり全部どかんと胃の腑に落ちました。びっくりした。これがゴジラなのだとしたら、ゴジラが国民的キャラクターと言われるまでになったのは十分すぎるぐらい理解できます。
この「国民的」と言う言葉、「国民ならみんな知ってくるくらい知名度がある」くらいの意味で使ってきたのですが、シン・ゴジラ鑑賞後になんか違うんじゃないかとなんとなく広辞苑を引いてみたら「国民すべてにかかわるもの」と定義されていました。
初代のゴジラは、あの時の国民全員に関わりのある畏れだったんだと、シン・ゴジラを見た今ならわかります。


特撮について、ゴジラについて、何も知らなくても、今現在の日本に生きる一人ひとりが、このゴジラに何かしら見ることができる。それは東日本大震災を経験した人すべてに共通で、でもごく個人的なものでもあります。例えば私は、地震で直接の被害は受けなかったけれど(一晩帰れなかったぐらい)、福島の電気が東京に送られていたという負い目があるので、ゴジラがまっすぐ都心を目指してくるのは仕方ないと思ってしまいました。品川がゴジラの聖地だとか色々あるみたいですが、それはそれとして、福島原発に手足としっぽが生えたようなゴジラに、罰せられても仕方ないんじゃないかと言う気持ちがどこかにある。それはものすごく個人的で誰からも共感されなくて、正解ではない見方かもしれない。でも、間違っていると誰かから責められるものでもない。私の経験した震災とそれにまつわる感情は、他の誰に正解を決めてもらうようなものではないからです。熊本の人はこないだの地震を見るのかもしれない。


CMを見て、これは要するに災害対策本部の映画なんだろうから、災害が身近すぎる今の我々にはちょっとつらすぎるんじゃないのかなーと言うのも最初見るのを迷ってた理由の一つだったんですが、見てみたら、それはむしろ見るべき一番の理由だったとわかりました。東日本大震災が起きるまで、シーベルトなんて単位知らなかった。でも今は知っている。目に見えない放射能の恐ろしさ。未曽有の事態の前には、ヒーロー個人ではなく、集団で事に当たるしかないということ。それを身を持って知っている今の自分は、特撮の知識皆無でも、この後の時代のどんな特撮マニアが切望しても得られない同時代性を持ってこの映画を見ました。
このゴジラが映画史に残って、初代ゴジラのように60年後まで全ての特撮マニアが舐めるように見ても、今ただこの日本に生きているだけの自分たちのように、このゴジラを見ることはできない。これってとんでもない体験じゃないか。


2014年3月2日の日曜美術館山口晃画伯が仰っていたこの言葉を思い出しました。

こういう同時代のものって言うのはやっぱり、ホットなんですね。ホットなものってホットなうちは良いんですけども、冷めたときこれ困るんですね。
(中略)
そのー、あまりにも時代に即したものって時代を越えない危険が、あるんですね。その時代の、なんて言うんでしょうね、地盤ごと次の時代に移っちゃった時に、その時代に立脚してないとわかんないことってのは、あったりして、そういう意味で現代性ってのは、あのーすごく危険な一面もあるんですけども、でもやっぱり今目の前にあるものなんですよね。僕らしかできない、ことなんですね。
今しか描けないものを見ながら、それをもう深く掘り下げるんですね。そうすると動かないところまでこう、なんて言うんでしょう、掘った部分が届くと、そうすると、それって言うのは、そのずっと、人に訴えかける語り口になるって言うんですかね。


同時代性にはそれだけで過去の名作にも優先する部分があると思っているので、この話の前半はよくわかったのですが、後半の、深く掘り下げたものが語り口になるという部分はいまひとつ良く分かりませんでした。
シン・ゴジラを見て、ああ画伯が言っていたのはこれだったのか、と初めて理解しました。シン・ゴジラはこれから先の人達に、2016年現在の日本の畏れや戦い方をずっと語り続けるんだと。


どうやっても勝ち目もないであろう滅びの焔に東京が焼かれて、不慣れながらも東京に住んで東京に勤める私はもう勘弁してくれと中盤ずっと拝むような気持ちでした。最初の上陸の後、すぐに電車が復旧したりするあたりとか、ああ東京だなぁと思ってただけにつらかったです。
だからこそ最後、我が愛する丸の内のビル群がゴジラに一矢報いたときは興奮しました。「物理的にタコ殴りってー!」とほとんど笑いそうでした。そしてあの無人在来線爆弾ですよ。いやーーーーーすごかった! 東京が壊されるのがつらいばかりだったけれど、あそこで初めて「うおおおおおおおお!!!!!!」ってなって、これが血湧き肉躍るってことか!とわかりました。いけー! がんばれー! うわー赤煉瓦蹴り飛ばすなー!ってもう大興奮。
帰ってきて色んな人の感想読んでたらやっぱりあの無人在来線爆弾なんだ、そこなんだって思えたのも嬉しかったです。これはあれだ、大好きな「ここまですごければ私にもわかる」あれだ。やっぱりあれはそうだったか。


この映画に出てくる政治家も官僚も役人も自衛隊員も、みんな命がけで国を人を護ろうとするけど、それは仕事だから。ごくシンプルだけど、それがすごくわかるのは、震災の翌々日出社できなくて、その1日後に出社して仕事を始めたときのあのほっとした気持ちを覚えているからかも知れません。ヒーローの背負ってる使命と、社会人の背負ってる仕事は、もうおんなじものだと言ってしまって良い気がします。
遠藤淑子先生の「エイミー」ではないですが、私を含めオタク気質のある女性ってみんな大なり小なり「自分はナウシカにはなれなかった」というがっかりを経験してると思ってるんですが(私見です)、ナウシカにもウルトラマンにもなれなくても、仕事を持った大人にはなれるという事実は、救いとか大げさなことではなく、単純に嬉しいことでした。ほんとに安直ですが、シン・ゴジラ見た後残業がんばれましたもん。しがない印刷屋ですけど。


これまでパニック映画を好んで見る人の気持ちがわからなくて、現実には起こりえない恐怖を安全に体験するお化け屋敷のようなものだと思っていました。
パニック映画は、その時の現実の恐怖を映す鏡なんですね。その鏡に映って初めて、見える自分の姿がある。
今を生きる自分たち用のゴジラが作られたら、仕事をしている自分が励まされるなんて思ってもみなかったです。
映画を観て、こんなに怖がったり、色んな事が腑に落ちたり、理解したりするのは初めてでした。映画を観ることそのものすら、初めて知ったのかもしれません。これが映画を観ると言うことか、と。