にっき

今月の頭に親の家を出ました。残念ながら嫁入りではないです。自分で決めたことなのに、5月の半ばからずっと「なんでこんなことになったんだろう」と顔面蒼白でしたが、ようやく顔色も戻ってきたのではないかと思います。
干支が三周するこの年まで一度も引っ越したことがなく、遠いけど通勤できないことはないし、家族と仲良いし、顔見知りばっかりだし、住み慣れてるし、千葉好きだし、なにより歴然と格段にお金がかからないしで、今もって家を出るのに何の必然もありません。その必然と、今の町に住むことの必然をずっと探していたのですが見当たらず、それにすっかり疲れてしまっていたらたまたま「今の人は自分の気持ちを見つめすぎて疲れてしまっている」と言うようなツイートを目にして、今の気分がどういうものか見極めなくていいのかと気が楽になりました。ほんとは見ず知らずの人のツイートなんかで救われたくないんですけどね。しかも元になったツイートは殊に嫌いなひらめきメモ(ブロック済み)だったのでほんとに不本意(だから引用せず記憶だよりで曖昧)。でも助かったものは助かったのだから仕方ない。
実家に置いてきてしまった本の中にカレル・チャペックの著作の引用があって、人はメランコリーに対する防御方法を持たない、みたいなことが書いてありました。大きな不幸には対抗できるけど、ちょっとの傷は防げない、みたいな(手元にないからこれも曖昧)。有益な情報とか、識者の意見とか、物をよく知った人の格言とかのツイートを目にすることは絶えずその傷を受け続けることのような気がします。公式アカウントの告知ツイートと、直に顔を知っているほんとに数人のツイート以外見なくなってから、すっかり楽になりました。誰のどのツイートがわるいとかじゃなく、くたくたの時って、自分以外の他人がものを考えているという事実だけでダメージを受ける気がします。
しかし引っ越して数日はあまりの寄る辺なさに趣味にまつわること以外もツイートしそうになったのですが、さすがにこの孤独感と向き合わないのはまずいだろうと我慢しました。インスタはやってるんでその程度ですけど。良いのインスタは疲れないから。


誰かに家を出るんだと言うと、まず間違いなく相手の方が「えー! 楽しみですねー!」とテンションが高く、対して私の方はやることと出費の多さにずっとげんなりしていました。変化の先の未知のものに対する楽しみというのは、その未知の正体にかかわらず、単に本人の若さに由来するんだと知りました。「楽しみですねー!」と言える人は、楽しみなうちに家を出ていて、その時のわくわくを思い出すのでしょう。
今もし家を出るか悩んでいる人がいたら、なにもアドバイスはできませんが、変化の先に不安と出費しか想像できない年になる前に跳ぶべき溝は跳んでおいた方が、良いとか悪いとかでなく楽しめるとは思います。だって「よーし誰はばかることなく思う存分ジャンクフード食べるぞー!」とか思ったとしてももう身体がジャンクフード受け付けないんですもん。
結局一番いいのは進学とか就職とか結婚とか、どうにものっぴきならない理由で出ざるを得ない状況になることだなぁと思いました。「女三界に家なし」という言葉の意味が、今までとは変わって、でも結局残っていくような気がしています。


うちの親は私を頼ると言うことは全くありませんでしたが、それでも今すごく『ちっちゃな頃からおばちゃんで』が読みたいです。しかし電子版が出ていない(そしてうちにはまだ本棚がない)! 『ワーキング・ピュア』はあるので淳子が出てくる4巻と5巻だけ買いましたが働く心にやっぱりびしばしきますね。「一人暮らしに比べて 実家にいることが楽だなんて思わないよ」。登場人物の女性が出版社にも本屋にも図書館にも勤めていないという点でも稀有な名作です。