わからないってわかっている

以下、「劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer」のネタバレがあります。


Over Quartzerを見終えた後、頭がガンガンして映画館のソファでしばらくじっとしていました。思っていたことは、「透明な金棒で脳髄をぶちのめされてしまった。」
平成仮面ライダーがぶん回しているものの実態は私には見えないのだけど、そこにそれぞれの平成とか、まだわずかな令和とか、仮面ライダーへの思い入れとか、思い出とか、全然関係ない人生の節目とか、勘定できないものまで全部、びたんびたんとくっついて、観客ひとりひとりに合わせた破壊力抜群の金棒が作られているみたいでした。
私を打ちのめした金棒は、ほかの観客のそれに比べて最も細くてとげとげも少ない、貧弱なものだというのもわかってはいたのですが、それでもすっかりやられてしまった。頭痛はひどかったけどめちゃめちゃ興奮していました。自分が感じたことが正解か不正解かはわからない、でもこれが平成仮面ライダーなんだって、それだけはわかった。

映画を見る前、ジオウを35話まで見る間、ずっとわからないわからない全然わからないと言い続けていました。平成ライダー全然わからない、一個一個の設定違いすぎて理解できない、それ全部ジオウってひとつの話に出すって無理あるだろうわっかんねーよ!と言っていたそれが私の平成ライダーの体験の全てで、そんなのは体験ですらないと思っていた、のに、まさか、まさか劇中でそれ全部ぶちまけられてそれでいいんだよってぶっ飛ばされるなんて夢にも思わなかった。胸ぐら掴まれて、それが、これが、平成仮面ライダーなんだよ!って真っ正面から啖呵切られてもうまいったって言うしかなかった。
一週間足らずの私がこれで、20年見てきた人とかどうなっちゃうんだろう。ニチアサを見ていると、会ったこともないリアタイ勢や先達が心配になることが多々あります。

仮面ライダーを全く見たことなかった頃から不思議だったことがあって、例えば今回のISSAさんにしてもそうなんだけれど、今、この時代を生きている人間にしかわからない要素をなんであんなに盛り込むんだろうと、それは一般層の目にも触れるニュースとかで見聞きするたび思っていたことでした。後の時代の人が見て「DA PUMPのISSAね」と思うのと、かつてヒット飛ばしまくってそのあとしばらく色々あって、去年USAで華麗なる復活を遂げたって知ってる今の我々が見るのと、感じ方が違いすぎるだろうことに危惧はないのかなと。

これはシン・ゴジラを見たときに引用した、2014年3月2日の日曜美術館での山口晃画伯の言葉なんですが

こういう同時代のものって言うのはやっぱり、ホットなんですね。ホットなものってホットなうちは良いんですけども、冷めたときこれ困るんですね。
(中略)
そのー、あまりにも時代に即したものって時代を越えない危険が、あるんですね。その時代の、なんて言うんでしょうね、地盤ごと次の時代に移っちゃった時に、その時代に立脚してないとわかんないことってのは、あったりして、そういう意味で現代性ってのは、あのーすごく危険な一面もあるんですけども、でもやっぱり今目の前にあるものなんですよね。僕らしかできない、ことなんですね。
今しか描けないものを見ながら、それをもう深く掘り下げるんですね。そうすると動かないところまでこう、なんて言うんでしょう、掘った部分が届くと、そうすると、それって言うのは、そのずっと、人に訴えかける語り口になるって言うんですかね。

シン・ゴジラのときはその深くまで届いたものを見た気がしたのだけど、仮面ライダーについてはその「地盤ごと次の時代に移っちゃった時に」「時代を越えない」ものをあえて取り入れているんだろうかという疑問がありました。
ものすごく長いこと続いている、特撮を代表するようなシリーズなんだから、作品性というか、芸術性というか、なんかそういうものを高めることができそうなものなのに、なんでいつもあんな外連味満載なんだろうと。全然門外漢でも「フルーツなの⁉︎」とか「顔に文字ついてんの⁉︎」とかは知っていました。主な視聴層が子供だからなのかなーと思っていたのですが、あっもう全然違ったわって映画見たらすぐにわかりました。

仮面ライダーは、そういう、今しかわからないものとか、今一番関心をひくものとか、見る人のその時の状況とか、時代背景とか、誰にも推し量れない思い入れとか、制御できるものもできないものもなにもかも全部全部総動員して、全打席それ全部乗っけた全力の全振りで、ここまでやっとシリーズをつないできたのか。後の時代になってどうじゃない、その時その時の今だけが全てだったのか。

物語の姿を借りて、自分の人生を覗きからくりのように覗き込ませて泣かせるタイプのフィクションがありますが、私はそれがとても苦手です。見る人の人生や思い入れとかも乗っけてくるとなるとどうしてもそういうものを連想してしまうんですが、仮面ライダーはそれとはまた違っていました。うまく言えないのだけど、それぞれの人生を「構造」として利用するのではなく、「武器」にしていたとでも言えばいいのか。「物語」はあくまで「物語」として見る人の人生とは確かに別のところにありました。なのに、物語の範疇に留まらない「平成仮面ライダー」という精神そのものが、時代や人生を全部乗っけて襲いかかってくるんだからもう防ぎようがない。

サプライズゲストのあの人の「それでも、選ばれた」という台詞ひとつにしたって、軽々と物語を越えてきた。去年奥野壮くんがオーディションに行ってなかったら、きっとソウゴは全然別のキャラクターになっていたはずで、しかも1年かけてキャラクターを作り上げる間に、どんな要素がどう絡み合って今のソウゴになったかなんて、誰にもわからないし予想なんてできるはずもない。今のソウゴがいるのはものすごい低い確率の果ての奇跡みたいなもので、でもそれを最初からこうなるってわかってましたー!みたいな顔してあの終幕の台詞言わせるのすごい。すごすぎるなにその度胸。
後半はもうなんか色々飽和して、ずっと大口開けて笑いながら見てたんですが、ウォズが平成ライダーを統括するような台詞を言うのもなんかもうおもしろすぎて一際笑いました。渡邊圭祐さんがクランクインの3日前まで仙台の古着屋さんだったのはあまりにも有名な話ですが、その人に20年のライダーまとめさせるのかってもう笑ってしまった。初代とかレジェンドとか連れてくるんじゃないんだ。今なんだ、今!ってあそこでものすごく実感してしまった。

横綱相撲みたいなシリーズだと思ってたんです。毎年絶対やってる、巨大市場を支える安定した歴史あるシリーズだと。実際見てみたら、なんていうか、博打が過ぎる。そもそも平成が今年終わったのだってたまたまなのに、ずっと前から今年こうなるって決まってましたーみたいに全部乗っかって、平気な顔して、次のライダーの名前だって、元号が決まるまで待って。

でもそうやって、確定要素も不確定要素も製作者からわかるはずない見てるほうの個人的事情まで全部織り込んで全振りしてやっと届くか届かないかの高みだけを目指せるってとんでもない。計画だけで届く高さだけでは、このシリーズは続かなかったのかと思うともういっそ怖い。

私がジオウを見始めたのは「最終回リアタイできそう」、言ってしまえば「今やってた」というほんとに理由とも言えない理由で、「最初のライダーにジオウを選んだ」とさえ言えないのだけど、でもそれが一番良かったのかもしれない。「どう考えてもこれ長く見てきた人向けの話だよな……」と難行苦行みたいにジオウを見ていたわずかな体験さえ全部、それがお前の平成仮面ライダーなんだって肯定されてしまったようで、今このときに見たこともまるで全部必然だったみたいな顔されて、ちょっともう全面降伏以外に立ち向かい方がわからない。この先ずっと見続けても、きっとわからないままなんでしょう。