弁当分の近未来

月曜は有休をとった。用事があったわけではなく、ここを休むと今週は火水木の三日間しか出勤しなくていい。三日間ならお弁当を作らなくてもなんとかなる。それで休んだ。
実家にいたころからの習慣で、土日どっちかに一週間分のお弁当のおかずを作り置きしておく。平日は寝る前に3.5尺くらいの米を朝炊き上がるようにセットしておいて、起きたらそれとおかずを詰めるだけである。一週間同じものを食べ続けるが飽きもしない。そのせいか、夕飯は二日と同じものを食べたくないのだけれど。
この作り置きというのは結構滑稽な行為だとずっと思っていた。自分が次の一週間、無事に暮らしてもりもりご飯を食べると信じて備えておくなんて、まぁまぁ図々しいことだと思う。厚顔無恥といってもいい。でもそう信じて作っておかないと一週間えらい目に合うので、ここはひとつそっちの目でとなんとなく自分に言い訳しながら作るのだ。
コロナ禍が日常を侵し始めてから、この目に賭けるのがしんどい。自分がほんとうのことから目をそらして、あえて楽天的にふるまっているとんでもないばかに思えてしまう。
少し考えれば、今は100%ほんとうのことがわかっている人など地上にいないことも、そもそも自分がそれほど賢くないことも、作っておくことが逆に危機に備えることなのかもしれないということも、思いつくのだけど、とにかくもうお弁当作るのがやになってしまった。料理そのものは苦にならない。お弁当を作るために次の一週間を思い描くエネルギーがない。

次の一週間を想像する気力がわかないのは、そのもっと先、これがどうにか落ち着いて次の選挙があったときにまた自民党が勝つんだろうなということが、逆に思い描けてしまうのがいちばん大きな理由である気がする。ここまで無茶苦茶になってなお、こんなにもどうしようもないのかと思うと初めて切実にこの国に住んでいたくないと思った。遅いと言われれば甘んじて聞きます。
唐突にジオウ本編のネタバレをするんですけど、最終回ラストシーンの彼らの姿を見たときに、子供のころから今に至るまで何度も見たその結末に、初めて違う感想を持った。若いころは、「よかったこれで幸せになれるね」と思っていた。ジオウを見たときは、「今この国の高校生になっても将来あの2068年よりハッピーにはなれなくない?」と思った。思った自分にびっくりした。
もしも私に子供がいたら、その子が自分より数十年長くこの国で生きなければならないことに真っ青になっていたと思うのだけど、子供がいる人は今どうしてるんだろうな。
でもなんか、基本ひねてて根暗で別に子供好きでもない私でも、子供みたいに未来と明るさしかない存在が身近にいるときは、なんとなーく前向きな気持ちになってしまうから、毎日そういう存在と接してるとそこまで絶望的な気持ちにならないのかしら。

何が正しいのかわからないしましてや自分の思考なんて頼りないこと極まりないけど、それでも心に浮かぶのは、例えばひょっこりひょうたん島でトラヒゲの倉庫から食料を盗んだことを謝らないと毅然と言い切ったハカセだったり、例えばクレヨン王国月のたまごで「してはいけないことは、いつだってしてはいけない」と言い放ったまゆみだったりするので、理不尽に学校を奪われたこの時間に、心の中にたくさん味方を作っておいてね、と、もしも子供がいたら伝えていただろう。

そんなわけでお弁当は作らないつもりだったのだけど、スーパーに行ったらイワシが三尾で90円だったので新しい圧力鍋を試してみたくて買って煮てしまった。それと夕飯の残りを詰めたらなんとなくお弁当になってしまって、結局この三日間も毎日3.5尺の米を炊いていた。弁当の一つすら思った通りにはならないよ。