僕は友達がいる 別の世に

最近、ものすごく久々に、寸暇を惜しんで本を読んでいる。今日はさぼってしまった。昨日は後輩から借りたテルマエ・ロマエの5巻に忙しかった。




落語を聴かなくても人生は生きられる (ちくま文庫 ま 44-1)

落語を聴かなくても人生は生きられる (ちくま文庫 ま 44-1)

落語自体はほとんど聞かないけれど、落語家のエッセイを読んだりするのは昔から好きだ。これはそれともちょっと趣が違う、落語の外側の人が落語について書いた文章を集めたアンソロジー。私自身が落語や噺家に対してなにも意見を持っていないせいもあると思うが、すっと読めて楽しかった。
お金を払って見る側には、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと、思って表明する権利がある。それは素人の見当外れのダメ出しではない。当たり前だけどツイッターとかで本人に直接こうせいああせいって言うのは規格外の身の程知らずで全然別の話。
玄人は素人だって笑わせなければならない。どちらが正解と言うことはないんだと思う。そして見る側にも、誰の見方が正解と言うことはない。

(前略)フェアであるために重要なのは語る者の立ち位置であり、それを自覚した〈語り〉である。
しかし、おそらく多くの日本人はここのところを逆に考えていると思う。右でも左でもない、なるべく偏りのない抽象的な〈自分〉を仮構し、その公正な(?)立ち位置に拠ってものを言うのが〈フェア〉な発言であると。
(中略)ひとはみずからのレンズでしか、対象を捉えることが出来ない。

松本尚久 p56

編者によるこのコラムは、透明な視座などないという、私がジャニーズを見ていたころから思っていることと同じで膝を打った。ジャニーズは「担当」と「担当以外」で見えるものが全く違う。私がジャニーズについてブログを書いていた終わりごろ、「冷静な第三者目線」から書けるブログの方がえらい、みたいな雰囲気になってそれは絶対違うと思ったことがある。そのときは、なんなら普段より偏向的なエントリを書こうとした。
私はいつだって、その人にしか見えないものを読みたいし聞きたい。どんな風に見えているのか、フィルタと言われようとひいき目と言われようと、その人をずっと見ていないとわからないことを、こう思っているからこそこう見えると、ファンにしか分からないその人の素敵さの一片を、おすそ分けしてほしい。





カラーひよことコーヒー豆 (小学館文庫)

カラーひよことコーヒー豆 (小学館文庫)

単行本で買おうか悩んでいた本が文庫になると時の流れを感じる。文庫化の広告を見て、解説が菊池亜希子さんと知り、これは私みたいなのを狙い撃ちにしているなと本屋で解説を読んでみたら案の定「若い子に手に取ってほしい」という理由の起用だった。私は若い子では確実にないが、「この本を読むか迷っている」「菊池亜希子が決定打になり得る」と思われている層では確実にある。こういうとき、「よしわかった、私が買わずしてだれが買おう」という気分でお金を払うのはひじょーに気持ちのいいものである。安くても。


胸に何かもやもやしたものがあって、こういうときはどうすればいいんだっけ、そうだ本だと思って開くと、まさにそのことについて書いてある。こんな奇跡のようなことが毎度毎度ある。そのたびに、ああ私はなにを、本も読まずになにをしていたのかと思う。答えはいつだってもう本に書いてあるのに。

灯台守研究会に新入生は入ったのだろうか。一枚の破れかけたポスターを頼りに、出会うべき誰かと誰かが出会い、灯台守の文献を調べたり、各地の灯台を訪ね歩いたりして、絆を深めている様子を想像すると、なぜか平和な気持ちになる。そこでは、人と人が出会うに相応しい手順が、ちゃんと踏まれている気がする。

「人と人が出会う手順」p52-53

若い時は大いばりで生きていればいい。少しずつ、ただごとでないのが分かってくる。何の前触れもなく、静かに試練はその人の背中に舞い下りてくる。

「ただごことじゃない人生」p77-78


最近漫才を見ていて思うことに似ていることも書いてあった。

一流のフィギュアスケートの選手たちを見ていると、技術の習得よりも、個性の表現に苦闘の原点があるように思える。持って生まれたものがごく自然にあふれ出てくるのではなく、努力の果てにようやく結実した一粒の結晶こそが、本物の個性なのだと彼らは教えてくれる。

「結晶のような個性」p107-108


本を読んでいれば良かったのだと、反省して、しばらくは本を読んで暮らすのだけど、またすぐに忘れて自分の頭だけで考えようとして行き詰る。答えは本にもう書いてあるのに。

人間は、千年前の人と同じ悩みで苦しんでいるんだなあ、と思う。社会の仕組みも生活環境もこんなに変わったのに、心の中は大して変わっていない。そう考えるとなぜか心が安らぐ。自分が今抱えている問題は、自分一人が背負っているのではない。人間が誕生して以来、ずっと変わらず、繰り返し繰り返し悩み抜かれている問題なのだ。

「千年の時が与えてくれる安堵」p97

そう思う。私が悩むことは私一人分の脳味噌では解決できない。できるならとっくにされている。ならば先達のように、その時代時代においてただ「対応」すべきなんだと思うようになってきた。時代は変わるから正解はきっとないのだけど。





リストラ芸人

リストラ芸人

上田さんがそのまんま喋っているような本。あっという間に読める。実際、サイン会の会場で設営の合間合間に読んで、帰りの電車で読み終わった。
FKD48の文字よりも、K-PROさんの文字にぐっときた自分に驚いた。K-PROさんはそれくらい裏方で、こんなふうに語られることも活字になることもないのかと思っていた。私のようなライブ通いが日常の人間にとっては当たり前かつかけがえのないひとつひとつのライブも、売れてしまえは良いか悪いかわからないけど思い出のひとコマで、テレビに出るようになってからも途切れない人脈の発端として記憶されるのかと思っていたし今でも思っている。
こうやって振り返れば一本の線のような物語も、実はあっちいったりこっちいったり無駄にしたりしてたと知っている。世に出たHi-Hiに、その、書き表しようのない時間がこれからあるのかないのかわからないけど、どちらにせよこの小説の続きを見ることができ得るということがうれしい。
できる、ではなくでき得る、と弱気なのは、見られる環境にありながら自分が見なくなることを想定しているからだ。ことほどさように私はミーハーだ。





幸いは降る星のごとく

幸いは降る星のごとく

橋本治が女芸人について長編小説を書いたと言うので発売日の夜に買いに行って、翌日の昼休みに読み終わった。この小説を読むのがへたくそな私がこんなに早く読めたのは、これが小説としては奇妙なくらい「分析」で地の文が埋められていたからだ。
読んでいる間、主人公のコンビ「モンスーンパレス」の「金坪真名子」にはなんとなく森山中の大島さんをイメージしていたのだけど、最終章になって出てきた「阿蘭陀おかね」と「とみざわとみこ」があまりにも椿鬼奴氏といとうあさこ氏そのものだったので、これはモンスーンパレスにも具体的モデルがいるのかと思って考えてみたらオアシズが思い当たった。そう思ってwikiオアシズの項目と照らし合わせてみたら、むしろなぜ小説という体をとったのかと不思議になるくらい、オアシズだった。
つまり、私の推測があっているとすれば、これは、橋本治がほとんど一冊かけてオアシズの、光浦靖子氏について書いた本で、これえらい事件じゃないのかと思うんだけど、人力舎なんも言ってないよなぁ。


なぜ私がモンスーンパレス=オアシズだと気づかなかった上に未だに自信が持てないかと言うと、光浦さんがテレビに出るようになった過程を一切知らないからだ。私はダウンタウンとんねるずウッチャンナンチャンナインティナインが司会をしているバラエティを一切見ないで育ってしまったので、その辺の歴史もヒエラルキーもまったくわからなくて、今でも彼ら仕切りのバラエティを1時間集中してみることが出来ない。
金坪真名子には「「芸はないがキャラクターでなんとかなっている芸人」の第一号的存在になってしまっていた」という描写がある。この引用における「芸」は「ネタ」のことなんだけど、私はオアシズのネタがどういうのだったかわからないので芸がないというのがオアシズに当たるのかどうかがわからない。お笑いさぁ〜んに出てたような記憶があるんだけど。


この小説は、女芸人になった女を通して、「男女雇用機会均等法以後の元女子中学生」という生き物の生態を、著者がひたすらこうこうこうであるよとあまりにも明晰に分析し続ける。お笑いと、女芸人についても分析する。ほんとうはひとつ、女芸人についての行を引用しようとしていたのだけど、あまりにもその1行がこの本のキモじゃないかと思って躊躇してしまったので止めた。

突然変異形の女子中学生は、笑われることを恐れない。男女雇用機会均等法以前には、女でブスであると「生きにくい」という思いを感じなければならなかったが、その後の突然変異形の女子中学生は「ブス」と言われても平気でこれを拒絶するし、その逆に「そうだよ」と言って平気で受け入れてしまう。すべてが「だからなに?」になって、屈辱の中で成功への道をコツコツと目指すということが古いやり方になってしまったのである。

p80-90

内田樹橋本治の本は、そのわかりやすさと明晰さでどんどん読めて、読んでいる間自分の頭が良くなったような気がするけど本を閉じた瞬間なにも身についていないことに気づく。わかりやすすぎて、消化しないまま出て行ってしまうようだ。

男女雇用機会均等法の後である。誰にでも「ほしがる機会」は均等に開かれている。でも、だからと言って誰にでもほしいものが手に入るわけではない。どうしてそういうことになるのかと言うと、「美人」とか「可愛い」と称される女達が、優先的にほしいものを手に入れてしまうからである。「男女の機会が平等であるのに、どうして自分には公平感が湧かないのであろうか?」と女達が考えるとどうしてもそういうことになる。女達の九〇%は、自分のことを「美人」とは思えていないので、どうしても不平等な搾取をする「幻の特権階級」を発見してしまうのである。

p190

序盤の、モンスーンパレスのネタの細部まで描写する細かさに比べ、終盤のあまりにも一気呵成な、まさにいろんな意味で「片付けた」としか言えない結末は、あまりのことちょっと茫然としてしまった。この結末こそが、少女漫画ではないのかと。ネタのオチを書くのにも等しいので書けないけど。
老獪な作者は、奇跡も妄想もそれほど大それたものではないと教えたかったのかもしれない。婚活を通じて頭でっかちになった妙齢のかつての女子中学生たちに、もっと偶然でありふれたものだよと。後になってみればああそんなもんだったねと。
それにしたって、この結末では(出版社が考えたんだろうけど)惹句の「それぞれの幸せの形」は大ウソではないか。ちなみに惹句はこれ↓

女芸人たちのセックスレス・アンド・ザ・シティ
「女芸人ブーム」が訪れる少し前、40歳を前にした4人の女芸人たちがいた。彼女達の足跡を辿り、この20年の女性を取り巻く状況の変化とお笑いを考察しつつ、それぞれの幸せの形を描く長編小説。

答えは本に書いてあるけど、自分の未来の予言の書ではないと何度も思ったことを改めて思い出して本を閉じた。同じ女というだけの彼女らが40になることが、自分を取り巻く社会の変質を促すという意味ではかかわりのあることなのだろうが、一個人に立ち返ってみてそれで自分自身の何かが変わるとかなにかの励ましになるとは全く思えない。彼女らに降る星が自分に降るとはもっと思えない。そもそも星って降ってこないよな。降るような星空って言うけどそんなん見たことない。これもひがみって言うのかい?