本の芸人

最近出た芸人さんの本を2冊買った。

芸人生活

芸人生活

プロレタリア芸人

プロレタリア芸人

ソラシド本坊さんのブログ、以前たまに読んでいたんだけど今はもうやってないのかしら。でも本坊さんのは、お金をもらって書く文章だと思うので、これからもお仕事で拝読したい。
「今になってみれば」という約束された破滅に向かう話は嫌いで、だから『NANA』のモノローグが読めなかった。本坊さんは、たまに「今になってみればわかることじゃないか」と当時の自分に毒づきつつ、基本的にはいつも何かの渦中にいる。過去を振り返る冷静な、ある意味卑怯な目線がないと選ぶのはいつもしんどい道で、でもその道はたまに真裏に行こうとも必ず芸人に続いている。やっぱり芸人さんてそうなんだなぁ。
ところが最終章「本坊元児でございます」で、その和んだ気分は見透かされたようにひっくり返され、芸人を辞めた2034年の本坊さんが語り始める。
そわそわと最後まで読んで、芸人と言うのは、やっぱり、どこまでも哀しいと思った。あんなに哀しくないと、あんなに可笑しくはなれないんだろう。
哀しくて可笑しい一冊を読み終えた私には、乾いた紙が破れるようなかさかさとした寂しさが残った。「あとがき」がないのがまた寂しかった。何の未練もなく、読者の前から立ち去ってしまうんだね。


芸人について書かれた物が読みたいなと思ったとき、評伝だと名人と呼ばれた落語家とか昭和の寄席とかのものが多いので、現代の漫才師かコント師の話が読みたいなと思うと現役の芸人さんが書いたものかフィクションになる。
お笑いのライブを見るようになってから、芸人さんを書いたフィクション探したんだけどそんなにたくさんは見つからなかった。


女芸人のコンビの話。クロヤギのイメージで読んだ。


幸いは降る星のごとく

幸いは降る星のごとく

女芸人というか、オアシズ光浦さんの話。


メリーランド

メリーランド

読みかけなんだけどどこ置いたかな。
同じシリーズの

南部芸能事務所

南部芸能事務所

と言うのもあるみたいなんだけど未読。


笑いの果てまでつれてって

笑いの果てまでつれてって

ちゃんと読んだつもりなんだけど、オチがどっちかわからなかったんだよな……。


たそがれ色の微笑 (新潮文庫)

たそがれ色の微笑 (新潮文庫)

この本収録の短編「白蘭」。現代の話ではないけど、今のところこのジャンルのフィクションはこれがぶっちぎり。読んでいる間中ずーっと、薄暗い見世物小屋の片隅にだけ照明が当たっているような気がしていた。


天津の向さんが『芸人ディスティネーション (ガガガ文庫)』と言うのを書いていると言うのは知っているんだけど、ただでさえ小説読むのが苦手な中でもラノベは特に読み進められないのでまだ迷い中。


火花

火花

話題の「火花」は文学界が増刷かかったときに買えたので読んだ。話の中で演じられる漫才の会話がこんなにおもしろいのは見たことない。基本、「おもしろいと言う設定で書かれているんだからおもしろいんだ」と思って読んできた。
しかしこんなに作者の言いたいことがよく理解できるものが純文学なんだろうか……と思っていたら結びの文章で、あ、すごく純文学っぽい、と思った。まぁ純文学がなんたるか私にはわかっていない。


あとはもちろん今も連載中の『べしゃり暮らし 1 (ジャンプコミックス)』。漫画には常に現実の半歩先を言っていて欲しい者としては、M-1とエンタがある作中と、THE MANZAIも始まって5年経つ現実との乖離にはらはらしていたんだけど、最近はそういうの関係ない普遍的な話になってきたような。しかし『柴犬』のころから森田まさのり先生が繰り返し描きたいのは「相方との別れ」ではないのかという心配は変わらずある。


芸人さんが自身の芸人生活を題材にした本には、圧倒的に「芸人」と冠される物が多い。冒頭に挙げた2冊もそう。

この本が出たとき、「芸人」とつかなくて珍しいなと思った。


ちょっと思い出すだけでも

京大芸人

京大芸人

リストラ芸人

リストラ芸人

芸人前夜 (ヨシモトブックス)

芸人前夜 (ヨシモトブックス)

あっちゃんのはまだ読んでない。


「芸人」に対する一番のキャッチコピーは「芸人」なのだろう。その一言から勝手に想像する、孤高とか捨て身さとか愚かさとかにはどんな言葉を尽くした説明より憧れや畏れをかき立てられる。職業に対してではなく、自分が選べなかった生き方に対して。


芸人の評伝は、エイトファンだったときに大阪のこころを知りたいとやす・きよ本を何冊か読んだ。その中ではこの本が一番好きだった。

文庫になっていたとは知らなかった。7年前に読み終えたときに書いた感想の1部が以下。

西川きよしのトップ当選からやす・きよの復活までを書く。やすしの記述が多いが、着地点がコンビの復活であるためか、あくまで「やす・きよと言うコンビがどうなるか」を常に気にかけているため、ひとりが話しているときも常にこの人の単位はふたりであると言うことが忘れられない。読み終わってから次の本を探し始めて、やすしの名前だけを冠した本の多さに気づき、最初として良い本に当たったかもしれないと思った。

やす・きよの最期がわかっている「今になってみれば」この本の最後の祝祭に満ちた空気は悲しいとも思えるのだけど、あの時大阪の人たちはやす・きよが復活して嬉しかっただろうなと思う。
その時を知らない者が、当事者の喜びを勝手な想像で悲しみに上書きするのはたいへん失礼な話だ。
今私が見ているものも、後になってみれば悲しくなるものがあるかも知れない。けれど今おもしろくて楽しいなら大いに笑おう。今めでたいと思うなら盛大におめでとうと言おう。