それから

三四郎単独ライブ「道徳の日本男児〜其ノ肆〜」
4/29 新宿シアターモリエール 18:00


何本目かの漫才で、あーそうか、小宮さんの世界には相田さんがいるのかと思った。それで自分が持っていた三四郎の掴み切れなさの理由もほぼわかった。


初めて見たときから今まで、三四郎と言う漫才師についてはずっと名状しがたいものを感じている。それが芸風なのか、いでたちなのか、コンビの関係性なのか、ボケや突っ込みの一つ一つなのか、それもわからないのだけど、小宮さんの歯が欠けようと欠けるまいと、人口に膾炙しようとしまいと、ずっと変わらず、なにかこう、見ている端から見逃しているような手に負えなさを感じていた。
それは「なぜ相田さんなのか」と言うことを、説明できないところに端を発しているんじゃないかと思うようになった。三四郎はつまり、小宮さんの世界だ。そもそもあのタイプの人がツッコミでネタ書きと言うだけでだいぶん破格なのだけど、あの滑舌と語彙がさらに三四郎の世界を稀有なものにしている。
その三四郎の世界の中で、唯一小宮さんに並び立つ人が相田さんであることが説明できなかった。「誰でもいい」という意味ではなくむしろ逆で、小宮さんだけが出演するテレビ番組を見ては「相田さんもつれてこないなんてわかってないわー」とか言っている。言っているけど、じゃあなにがわかってないのか言ってみろと言われたら説明はできない。


三四郎の世界である小宮さんの世界というのは、そもそも相田さんがいる世界なんだとわかった。漫才が始まる時、小宮さんは相田さんを自分の世界の一部として、自分と全く均質なものとしてとらえている。だからコマネチやって、とか、美容師やりたい、のリアクションが自分の考えるものと違っていたときいちいち驚く。漫才の間中、小宮さんがぷんすかしてるはずだと思った。自分の一部であり自分と同質であるはずのものが、自分の思う通りに動かないんだから。
いくつかの漫才の途中で、突然相田さんの気が違ったように見える瞬間、あれは小宮さんが相田さんを異質なものだと認識した瞬間なんだと思う。自分一色だった世界が初めて二色になる瞬間。漫才は、小宮さんが相田さんを自分と違うものだと認識した後唐突に終わる。甚だしい場合はその時もう相田さんは舞台上にいない。ハッとした顔のまま頭を下げる小宮さんは、これから相田さんと言う他者のいる世界で生きるのだろうと思わせる。でも次の漫才が始まるとき、小宮さんはまた相田さんを均質な世界の一部ととらえている。


じゃあ何をもって小宮さんが相田さんを自分と均質と認識しているのかと言えば、それはやっぱりわからない。昔からの友達だとか、二人とも頭おかしいとか、そういうことで説明がつくとも思えない。何本かの漫才を立て続けに見て、小宮さんの世界に自分と同じものとして、最初から相田さんがいると思った。それで追究する気もあまりなくなってしまった。小宮さんの世界がそういう風にできているならそうなんだろうと思ってしまった。
ただ、自分以外のものを「自分と均質である」と認識する機会なんて、普通に生きてて天文学的確率の低さなんじゃないのか。さもなくば、物心も付かない、まだ世界が何かも知らない幼い子供にしか起こり得ないことなんじゃないのか。その途方のなさは、別の感触で三四郎に対する手に負えなさとして残っている。


私にとって三四郎の漫才を見ることは、小宮さんが他者を、世界を、発見するプロセスを何度も目撃することだ。発見するためには見つかっていないものが必要で、それは目の前にありながら見えないほどに小宮さんの世界と均質な相田さんだった。見つかるのは相田さんでなければならなかった。