飛ばないじゅうたん

「エピソード」発売記念ツアー『エピソード2以降』
2/20 中野サンプラザ 19:30


星野源のコンサートは、星野源の曲を、星野源の声で、歌うのだから、見ずとも聞かずともなんだったら始まる前から良いコンサートになることはわかっている。
でも最近この「良いとわかってる」というのはなかなか曲者だと思っていて、あまりに見る前から良いとわかっているものにはわざわざ行く気が起きなくなってしまうことがある。実際、とある無茶苦茶評価の高いお笑い芸人の単独ライブは、一度行って「わぁすごい」と思ってその後行っていない。
それでも足を運ばせるのは、曲だけの良さとか、声だけの良さとかを、超えた、なにかを期待するからなのだけど、過たずそこを満たしてくれる良いコンサートだった。


ことさらに好きな曲を全部生で聴けたのは初めてじゃないかな。「兄妹」と「くせのうた」と「営業」。
「兄妹」は始まる前に短いMCがあり、「僕、産まれなかったきょうだいがいるんですよ。妹かな」と言う言葉を聞いてからの「兄妹」は、歌詞がまた違って聞こえた。私この曲は最初に聞いた時「バカ姉弟」のテーマソングかしらと思ったもので。「夢をみせて 兄妹」とか、不思議な言い回しだなと思ってたんだけど、産まれなかった妹には、名前がないから、「兄妹」以外に、呼びかけようがないのね。普通、きょうだい、と呼びかけるとき、ヤクザとかワンピースとかの仁義の世界の親しさを込めたりするものだけど、そういうものの余地がないくらい、ただの呼び名で、それしかなかった。
「営業」の不穏さはより不穏になっていて、「くせのうた」はなんだろうな、もう荘厳だとすら感じた。「くせのうた」は、ずっと特別だ。


「ストーブ」を聞きながら、祖母の火葬をした広島の焼き場のことを思い出していた。「この人火葬場以外のどこで働けるんだろう」と言うほど芝居がかった八の字眉の女の人に案内されてちょっと笑っちゃったこととか、窯に火を入れる母は長女なんだなと思ったこととか、骨になったらもう祖母に見えないんだなと思ったこととかを。
どの曲でもこんな風に、個人的で有機的すぎて誰とも共有できない記憶や感情をいくつも思い出した。「おいしいものを食べた時に思い出す人が一番大事な人」とか、「試着室で思い出したら本気の恋だと思う」とか、いろいろ言うけど、星野源のコンサートの間に心に浮かぶ人がいるなら、その人は、自分の感情の一番繊細なところをつかんでいる人なんじゃないか。


本編最後の「日常」と「フィルム」の2曲が、このコンサートが向いている方向をくっきりと浮かび上がらせて、終わったように思う。「日常」は特別好きな曲じゃなかったのだけど、一番印象に残っている。ホーンが入ってからの「日常」は、まるでマーチだった。星野源も、バンドも、そこに立っているのにずんずんと前に進んでいくようだった。奇麗事でも何でもなく、向かっているのは明日だと思った。


星野源のコンサートを見るのはこれで3回目くらい。毎回、ボーカルの足元にはじゅうたんが敷かれている。
最初に行ったパルコ劇場は、「部屋」というコンセプトだったからそれでかなと思っていたんだけど、その後もずっと敷いてある。
あれを見るたび、『たろうのひっこし』を思い出す。お母さんから古いじゅうたんをもらったたろうが、あちこちでそのじゅうたんを広げて、そこを自分の部屋にするおはなし。
たろうは絵本の中で、くるくるとじゅうたんを丸めて色んなところに移動してはそこを自分の部屋にする。軽やかでありながら、いちいち腰を据える姿が無性にかっこよくて、子供のころよく真似した。
星野源の足元にあるのは、まさにたろうのじゅうたんだ。広げると、どこであっても、そこを自分の部屋にしてしまうじゅうたん。空を飛んでどこか違うところに連れて行ってくれる魔法のじゅうたんとは真逆の、地に足を付けるためのじゅうたん。
大好きな絵本だったのに、結末を覚えていない。なにか花の咲いている景色のいいところでご飯を食べていたような気がするけれど、これはコンサートを見た後の私の心象風景かもしれないので、全くあてにならない。


たろうのひっこし (こどものとも傑作集)