声をひそめてさけぶのは

オードリーの小声トーク 六畳一間のトークライブ

オードリーの小声トーク 六畳一間のトークライブ

構造的なネタバレを含みますので、未読の方は読まないでください。


この本の、本編の読後感は幸福感だった。今も話されるエピソードの原型、知り得なかった時代を垣間見られるうれしさ、ライブの楽しさ、ああこのころからオードリーはオードリーだったんだねぇとのんきにふわふわとした幸福感だった。
春日氏の手書きのあとがきは、「春日」としか言いようがなく、つくづく、この方はキャラクターも想像も超越した大物であることよとなんだか漫画を見たような思いがした。
若林氏のあとがきの、最後の1行を読んだ瞬間、宙を漂っていた幸福感はわしづかみにされ、ぺしゃっと地べたにたたき付けられた。ふわふわとした感覚は消え、鉛を飲んだように胸がずしんとした。
それは、この本を読んでいる間中の(そして脚注の)「今にして思えば」という生ぬるい視線を一瞬にしてひっくり返されたからであり、その視線の安直さを思い知らされたからだ。
売れた今だから、まるで物語みたいに読む。このときに話したエピソード、このトークライブ自体も含めてがその後全部、良い形で結実するのを知っているから、成功憚の一部としてああ良かったねぇ報われてなんて言うのだ。報われるとわかっていれば努力はたやすい。


「今にして思えば」という視線を一切排除した、28歳の若林正恭による後書きにはどん詰まり感しかない。このライブがどうにもならなかったかどうか、31歳の若林正恭は知っているけれど、28歳の若林正恭は知らないから、書かない。
あとがきを読んでみると、まえがきの奇妙な優等生ぶりに納得がいく。「当時の二人もきっと喜んでいるのではないでしょうか?」という物言いに違和感を感じたことに。喜ぶわけがない。彼らはこの本が出ることも、他の仕事も、何一つ知り得ない。
「報われる」という言葉を全力で否定する書き手が見えた気がした。今がどんなにプラスでも、それで過去のマイナスを帳消しにできる訳じゃない、人生は、そんな風に借金を返していくようなものじゃない。
31歳の若林正恭が(全部ではなくとも)楽しい仕事ができるようになっても、28歳の若林正恭は今もまだむつみ荘で世界を恨んでいる。
過去を美談にすることを全身で拒否するオードリーは、やっぱり芸人のロールモデルにはなり得ない。


読後、幸福感の代わりに重苦しさを得て、それで読者である私は失望したか。否、震えるように喜んだ。おそらくこのとき自分の顔をぬぐったら、べったりとどろがてのひらについただろう。
ただただ「春日」として仁王立ちする人、その隣で、どろだんご片手にニヤつく人、初めて知ったときのオードリーが、そのままの姿で並んでいる。
私が好きになったとき、すでにオードリーはテレビでひっぱりだこだった。私は、オードリーの核たる部分は見ていない自覚がある。それは、ライブに通うようになってさらに強く思った。
それでも、こんな人たちだから好きなったし、ライブで見ることができなくても好きなままなんだろう。大人になってもテレビに慣れても、隙あらばどろだんごを投げつけて大笑いしようとするオードリーだから、どんな不自由な仕事であってもそこにオードリーがいると思う。




週に1回以上はライブに行くようになって、オードリーがいたころのライブシーンてどんなものだったんだろうとよく思う。
ライブのネタ後の企画はゆるかったり急場しのぎだったり、それでも芸人さんは楽しそうで、時には観客より演者の方が楽しそうだったり(人数が多かったり)する。
そういうとき、「ああ、私はおそらく、彼らが売れた後に「あの頃は良かったね」なんて言って回想する時代の、特に記念すべき日でもなんでもない日常の光景を見ているんだろうな」と思っていた。
でもひょっとしたら、思い出したくもないクソみたいな日々のクソみたいな場面の書き割りなのかもしれない。小声トークを読んでそう思った。彼らは客前でちゃんと楽しそうにする。プロだから。小声トークをやっていたころの若林氏もそうであったろう。
後の日々なんて知らず、ただ、今のライブシーンを見られるのだから見ておこう。フライヤーを見て「おなじみのメンツだなぁ」なんて思うのだってきっと一瞬のことで、気づいたときにはすっかり入れ替わってしまっているし、そのときに自分が何を見ているのかだってわからない。