びっくりするほどカウンター

うしろシティ第3回単独ライブ「アメリカンショートヘア」
1/16 19:00
1/19 19:00
新宿角座


今回の単独の話の前にちょっと今までに見た単独の振り返り。
0回目というか、角座若手開幕シリーズの「うしろシティの日」。このときは、「うしろシティの、演じながらにして演者である自分たちの個性を見せることのうまさにいちばん感嘆した」(この日のダイアリによると)。
第1回の単独ライブ「ヘラヘラ」は、開幕シリーズに比べると印象が薄い。だけど、KOC前のWeb一週間のインタビューで金子さんが「1回目の単独がお客さんに伝わりきらなかった感じがあった」と仰っているのを聞いて、なるほど、こちらに伝わっていないと言うことがあちらに伝わったのか、そういう意味のある単独だったのかと思った。
第2回の単独ライブ「走ってるのかと思った」は、感想を残していないのを後悔しているほんとうに素敵な単独だった(Web一週間の直筆コメントと写真)。
このライブで思ったのは、名は体を表すというか、たまたまつけたという「うしろシティ」という名前が、そのときに分かるはずのなかった彼らが将来見せる新しい一面をこんなに端的に現すという偶然か必然に驚いた。
「このふたりでないと出来ない」と、うしろシティを見る度に「ふたり」という単位を強く強く意識していた。それが、この単独では、彼らの周りの人物が、立ち上がり動き回っているのがはっきりとわかった。「美容室」が象徴的だったけれど、あれだけではなくて、「ストリートミュージシャン」のその場にいないクラスメイトや、「焼肉」の先生、「大丈夫」で喧嘩している彼女が、ただその場にいると言うだけじゃなくて、たしかにその人がいて、昨日までこの街で生活していて明日からもこの街で生活していくのがわかった。
DVDで「街のコント屋さん」の看板を掲げた彼らは、小さな工房でコントを作ってせっせと出荷しているうちに、ちいさな街を作り上げていた。その街が、いつのまにかほんものの大きさになって、元々の街を飲みこんでしまうかも知れない……というと、栞と紙魚子の「何かが街にやってくる」みたいだけど。そんな空恐ろしい予感もちょっとするような、でもパステルカラーで彼らの住む街の地図を描きたくなるような、そんなライブだった。
最初と最後を短いネタで挟む構成も、地図が一枚の紙で完結しているような、パッケージ感があってとても好きだった。


ここからは今回の単独ライブの感想です。ネタのオチなどには触れていませんが、DVDが出る可能性が大きいので何も知りたくないと言う方は読まないでください。


今回の「アメリカンショートヘア」では、彼らの街がさらに大きくなったところを見られるのかなと思っていた。政令指定都市くらいに。なにしろ前回の単独から今回の単独までの間に彼らは日本で8組しか得られない全国ネットでネタを2本やる機会を掴んで、その結果爆発的にファン層を拡大した。その環境が単独ライブに関係ないなんてことないと思っている。そもそもKOCにも自分たちをどう印象づけるかきちんと考えて臨んだコンビだ。たくさんの人に見られて認められて褒められて、その上で何を見せたいと思うのか。今の彼らを見るって事は、今の彼らのネタを見るって事だけじゃない。


見終わって真っ先に思ったのは、街の広さでも人口の増大でもなかった。あぁ、「いろんな金子さん」と「いろんな阿諏訪さん」を見られたなぁ。
教師と生徒、生徒と生徒、ストリートミュージシャン、おなじみの設定の中から、初めて会うキャラクターが続々出てきた。
カラフルな金子さんとアースカラーの阿諏訪さん、可愛い金子さんとニヒルな阿諏訪さん、擬音で言ったらきゃるーんとシャキーン。芸人としてのキャラクターは対比しやすい2人だけど、演じるキャラクターはどっちがどんな色と決まっていない。ネタが始まった瞬間は、どっちが良い子なのか、どっちが嘘つきなのか、どっちが変な人なのか、どっちが泣き虫なのか、さっぱりわからない。
自由自在の役割分担を、ただ「金子さんが演じる人」と「阿諏訪さんが演じる人」という2つに大別するだけで、うしろシティのコントの歯車はかみ合って動き出す。
いつも単独が終わってみると、全体を通して「どっちがツッコミでどっちがボケ」とか「どっちが善人でどっちが悪人」とか、言えることは何もないと気づく。分けられるのは「金子さんが演じた人」と「阿諏訪さんが演じた人」だけで、そのどちらもどんな人であれ、とっても金子さんらしい人だし、とっても阿諏訪さんらしい人だ。これは開幕シリーズから変わらない。


今回の単独で初めてはっきりと感じたことがひとつある。彼らの演じるキャラクターは、ひとりに対してもうひとりが、びっくりするほどにカウンターの位置にいる。陰と陽とか正と負とかともちょっとちがって、ただ反対や表裏に立っているんじゃなくて、そこからいつだって強烈なパンチが飛んでくるような、能動的な対抗。
強烈なカウンターがいることによって、物語はひとりずつではあり得なかった方向に強く強く引っ張られる。平行四辺形の2辺が矢印だったら、対角線の方向に力が発生するように。
ひとりの物語にもうひとりがツッコミを入れるのではなく、ひとりにもうひとりがふりまわされるだけでもなく、ふたりでどんどん深みにはまっていく。
ヒッチハイク」での要求も、「俺があいつであいつが俺で」の大丈夫さも、阿諏訪さんに対するのが金子さんでなければあり得ないし、金子さんに対するのが阿諏訪さんでなければあり得ない。
それでいて、その相方が「都合良く用意された」と思わない、ああ同じ街にこのふたりがたまたまいたのかと頭から信じられるのは、やっぱりそのふたり以外の街の住人の気配を感じているからだ。「走ってるのかと思った」で感じた気配を、ざわざわと、常に。


うしろシティは初めて見た時からとんでもない完成度だと思って、それがどれくらい衝撃だったかというとデビュー曲が「野良の虹」だったキリンジと同じくらいなんだけどこれ伝わるかな(とはいえ私がうしろシティのデビューを目撃したわけではない。私が、初めて目にした時の話)。
もう完成してると思ったのに単独を見る度に知らなかったすごさを目の当たりにする。次に見る時はそのすごさを内包してまたすごいところを目の当たりに。
でも初めて見たたったひとつのネタで、その全ての要素を見ていたような気もする。彼らがおもしろがってるものは全然変わってないんだなとも見る度思う。金子さんと阿諏訪さんが揃っていれば全ては足りていて、思わぬ方向へ力が生まれ始めるのだから当然かも知れない。
きっともう見ているけど見えていない。金子さんと阿諏訪さん、それぞれの力が大きくなってきて、鈍い私にもそれがひとつずつ見えるようになってきているだけのことだ。彼らがまた次に新たな力の対抗を詳らかにした時きっとわかる。こんなすごい彼らをもう知っていた、と。

(19日ver. ネタのタイトルは勝手につけてます)