遠くから見た映画

12/18 ユーロスペース 19:00

東京での公開初日に映画「逆光」を見てきました。

映画『逆光』公式サイト – 尾道から世界へ


夏の尾道で撮られた映画で、広島では今年の夏に上映されていました。私はこの映画については全く知らなかったのですが、広島の友達がこの映画を観に行ったりイベントに行ったり、そして尾道に行ったりするのをTwitter越しに「楽しそうだなぁ」と眺めていました。

その友達が書いた、この夏と映画についてのnoteがとても素敵でした。
note.com

友達から東京でかかったら絶対観て!と言われたので、わかった、絶対観よう、と待っていました。
そんなに映画を観る方ではありませんが、「地方でかかった映画が東京に来るまで待つ」という経験をしたのは、今回の他は京都のCOCON 烏丸でたまたまポスターを見た「電信柱エレミの恋」だけです。10年以上前!
私は東京の人ぶるのが一番恥ずかしい今東京に住所があるだけの骨の髄までの千葉県民なのですが、それこそ千葉に住んでいる時から「大体の興行は東京で見られる」という恩恵に与ってきました。
去年福岡のローカルヒーローにはまって以来、3日と開けず「福岡にいないと見られない」と地団駄を踏んでいるので説得力が薄いですが、エンターテイメントに関して地の利にものすごく恵まれているという自覚はあります。
そして裏を返すと、コロナの蔓延で興行もイベントも消滅した東京は、ひたすら家賃と物価が高くてなんの楽しみもないほんとうの東京砂漠でした。

この夏の東京は、第5波、医療崩壊、自宅放置者2万人超、感染したら治療も受けられず死ぬかもしれないという経験したことのない恐怖で、私はワクチンが打てるまで週1度の買い物でしか家から出ませんでした。
東京はもうダメだから福岡さえ無事であれば良いと思いながら、今後、「東京でのみ興行が打てない」という状況になったりするのだろうかと考えていました。
実際は東京から地方に感染は広がるし、そもそも製作する人も出演する人も多くが東京に住んでいるから、単純に開催場所が他所ならできるというものでもないのだろうけど、人を集めるイベントは東京と大阪のような都市部でこそ難しいという時代が来るんだろうかと。
しかし集客と交通の便の良さは切っても切れないし、交通の便の良さは感染の広がりやすさとイコールだし、制作側の居住地含めた社会の仕組みが変わるより先にコロナは収束するだろうし、収束しなかったらそもそも興行が打てる社会状況とも思えないし。広島の友達や、自分が行けなかった福岡の公演の様子を見ながらそんなことを思っていました。


冬が来て東京で「逆光」が観られるようになったので、何も考えずに初日に行ったら、須藤蓮監督、中崎敏さん、富山えり子さん、木越明さん、そして渡辺あやさんが登壇する舞台挨拶がついていました。
知らずに行ったら舞台挨拶だった、というのは、シネマ・ロサで観た「カメラを止めるな!」(時間のある出演者が毎日誰かしら出ていた)以来でしたが、今回もあの時も、「イベントの多い東京だから」というよりも、作り手が普通とはかけ離れた熱量でこの映画を大切に育てようとしているからでしょう。

監督が、そもそもこの映画は自分と渡辺あやさんの持続化給付金を持ち寄って作られたと聞いて思わず笑ってしまいました。撮影延期になった映画の代わりに何か作ろうとしたときに「70年代の尾道なら撮れるかもしれない」となったと話していて、「尾道でなら撮れる」というのは、真っ先に感染が広がる東京では無理だったということなのかなぁ、それなら夏に自分が考えていたことは、そこまであり得ないことではないのかなぁと思いました。70年代なら撮れるということも含めて、ここの真意はよくわからなかったのですが。

監督が、言語化できないけれど自分の心が揺れたところを切り取った、というようなことを話してくれて(言い回しは曖昧です)、腑に落ちた部分がありました。この映画は、写っているものがはっきりとはわからないカットが多い。それも、近すぎて見えないことが多い。もう少し引いてくれたら全容がわかるのに!とすごくもどかしいのに、それに「見えているものをわざと隠して焦らそう」という嫌味を感じないのはなぜだろうと、観ている間思っていました。
あれは、見えているものを隠しているのではなく、監督にも見えていないけれど大事なものをそのまま映しているからなのか。
全てを描くのではなく、最後のひとっ飛びは観る側の想像力を借りて、作品単体より高い場所に到達する作品が私は好きです。どんなジャンルでも。




(ここから内容のネタバレが含まれるので未見の方は読まないでください)


いやしかし、あれはどっちなの……!

ラストシーンで、「あれ、この映画あと何分あるんだ?」って時計を見ようとした途端エンドロールが始まったくらい、まさかあそこで終わると思わなかった。
二人きりになるのにあそこまで策を弄したのは吉岡なんだから、あれでなんもないってことはないと思うんだけど、しかし吉岡が晃の純情を叶えてやろうというほど良い人とはとても思えない。あらすじを読んだときは、吉岡はみーこのことが好きになるんだと思っていたのだけど、吉岡は晃はもちろんみーこにも全然執着してなかった。でもスカしてからかおうっていうならあそこまでするか……⁉︎
晃の最後の引用、70年代なら今よりもっとずっと同性愛への反発は大きかったはずだし、晃が自分の恋を「その時代の社会に有害」と思っていることに無理はないけど、でもあの涙は、一度でも想いを遂げられた喜びなのか、恋が終わった哀しみなのか、でもそのどっちもが成立することもあるよなー!とほんとにめちゃくちゃぐるぐる考えていたらエンドロールが終わっていました。
さっきも言いましたが、最後は見るものの想像力を使って高く飛ぶ作品が好きです。
しかしこれは跳躍力が試される。ほんとにどっちなんだろうー!「眩しくて見えない」タイトルそのままに、真ん中にある被写体がしかとは見えなくて、でも海中の静けさや蝉の声の喧しさの輪郭が浮かび上がる。

到達点が自分に任されているからこそ、夏に遠くからこの映画を眺めていたごく個人的な経験も、そのとき考えていたことも、書き残しておきたくなりました。