低く飛ぶ飛行機

ドゲンジャーズの放送が始まったのが4月12日。その時から行きたい行きたいと言い続けていた博多にやっと行けた。2週間前に。
新幹線で広島駅を通ったとき、強く胸を掴まれるような思いがした。よその土地を訪れるというのは、こんな体験だったかと思った。広島の友達にも会いたかった。
新幹線で広島より先に行ったのは多分初めてで、中間市のあたりを通ったときに、ここがエルブレイブの中間市かーと窓の外を見ながら結構本気でぼたぼた泣いていた。なんでかわからんけど。

やっぱりずーっと非常事態下にいると、ちょっとおかしくなってて、それに自分でも気づけないのかしら。博多に行くか行かないか相当悩んだし、「これに行けなかったら生きてる甲斐はない」とは思ったけど、それでもやっぱりほんとに命に関わる感染症にかかるリスクと娯楽は天秤にかけられるもんじゃない。
でも感染症が怖いからって行くのやめてたら、別の意味で深刻にやばかったかも知れないとも思う。
むつかしいやね。生きてればいいのかと思うし、死んだら元も子もないとも思うし、死ぬのはまだしも殺すのだけはごめんだし。

多分東京に勤めてる人は最低でも「同じ建物で働いてる人がPCR検査」くらいまでは経験あるんじゃないかなぁ。一度あれ体験すると、おいそれと軽々しいこと出来なくなるね。自分がかかるのはまだいい、無症状で罹患して人にうつして殺すかも知れないってほんとに怖い。
ただ、「安心」と「安全」は全然セットじゃないのでなんで並べて語られるのか不思議で仕方ない。安心してたら安全なわけでもあるまいし、誰かにとって安全でも別の人は安心しきらんかもしれんし。
人によってリスクの程度が違って、客観的な指標もなく拠るべきは自己判断だけで、自分の基準を守ると同時に人の基準を尊重すること。
日本社会がここまで苦手なことがあるかね。画一的に決められた禁止事項は遵守するけど、人の正義と自分の正義をすぐ二者択一にして戦わせて負かそうとする未熟な社会に。リスクはゼロでないと許さない、程度で考えられない幼稚な集団に。
ネット越しに自分と違う人とどんどん対立を深めていく悪循環を解消するのは、やっぱり会って話すしかないと思うんだけど、そもそもそれができない。
病気として殺すのではなくて、的確に社会を分断し破壊することによって人類を滅ぼすタイプのウイルスなんじゃないかと思ってる。正直。

ウイルスを上回るほど成熟した社会が作れるとは全然思わないけど、ひょっとしたらこの先の人類は、バーチャルと知識だけで満足できる程度の進化はするのかもしれない。でも旧人類の私は結局自分の体を運んで五感で体験しないと全然何もわからないってわかってしまった。百聞は一見にしかずって、最初に言った人ほんとすごいわ。

自粛期間はネットがなかったら発狂してたと思うけれど、ありがたいことに家にいながらにして写真も動画もたくさん見られるけれど、それを見て何か思ったところで「他人が見た何かを見た感想」であって、「それそのものを見た感想」ではないんだよね。なにもわからないまま見ていた自分がどれだけグラグラしていたのかよくわかった。直に見て、やっと基準が作れた。この基準を作るために私はあんなに博多に行きたかったんだなぁと行ってからわかった。
まだそんなに気軽に移動できないし、ネットを通じて人が見たものを見せてもらう方が多いままだけど、でももう一度見たから。一度この目で見た最高の彼らがいるからもう大丈夫。人の感想と自分の感想を取り違えたりせずちゃんと見られると思う。

博多の街の空を飛ぶ飛行機があんなに低いのも知らなかった。街のすぐそばに空港があるんだから少し考えればわかりそうなものだけど、そんなことさえ、見ないとわからなかったのよ。