日常という博打のこと

地震は来ると思ってた。ここ最近で、台風も来るものだと思ってた。しかし疫病とは、そうきたかーという感じ。
2011年5月24日、つまり東日本大震災から2ヶ月ほど後の朝日新聞に掲載されたしりあがり寿さんの「大きな賭けに負けたボクたちは」を読み返しながら、長期的に見れば賭けに勝つことはつまりないのだとわかった。負ける博打にそれでも挑まなければならないなら、いかに損を少なくするかで、それならそろそろ肺炎より金が稼げないほうで人が死ぬ。だから今週末超えたら普通にしようと勝手に決めてたら19日までイベント自粛って専門家の見解が出てしまった(その翌日さらに10日間自粛延長って出たけどあっちはハナから聞かないと決めているので無視)。
それも少なくともそこまでいかないとなにもわからないってだけで19日になにかがぱっと解決するわけじゃあるまいし、とはいえ思い付きで号令かけるだけの首相(とも呼びたくない)よりは専門家を信用するから19日までは我慢するけどさー。もう長期戦になるなら社会活動をそれ用に合わせてなるべく生活が成り立つ方法を探していくしかないわけで、それにまつわる大体のことはいまウイルスじゃなくて政治のせいで大混乱してるんだからほんとにまじで心底勝手にやるからなという気持ち。言いっぱなしで自己責任と自己判断おっつけてくるなら納めた税金返してくれ。その金で自己防衛するから。

楽しいものが見られないこっちもつらいけど、楽しいものを提供できない人はもっとつらかろうなと思う。イベント関係の倒産は本当に心配だ。私も大恩あるK-PROさんには僅かばかりだが支援した。
思えば東日本大震災の時、まだ千葉の実家に住んでいた私は都内の会社から一晩帰れなくなって、千葉に帰ったら今度は東京に行けなくなった(千葉は結構簡単に陸の孤島になる)。たぶん一日だけだったと思うけど、仕事ができないという焦燥感、無力感、いらだちというのは本当に身を焼くものだと知った。
なんかこう言うとすごい仕事好きみたいだけど特に好きじゃないです。
好き嫌いの問題ではなく、仕事というのは日常であり、習慣であり、生活の基盤だから、それいきなり全部奪われるのはほんときつい。あと、大局には全然関係なくても目の前のものをこなすことによるつかの間の充実と精神の安定と自分は何かしらの役に立っているという思い込み、結局仕事の効能ってこれがいちばんじゃないかと思う。

種々様々な公演が中止になって、役者さんがSNSで漏らすわずかな言葉の端々からですらその傷の深さが見て取れる。公演がなくなったこと自体もだけど、これと思い定めた仕事ができないことのつらさはいかばかりかと思う。まして、「お前の仕事は非常時に真っ先に切って捨てられていいものだ」と宣告されたように感じているのだとしたら。
配信とか無観客とかいろんな方法が模索されているけど、そうやってなんとしても届けるという情熱の源である「この仕事は絶対に誰かにとって必要だ」という思いそのものが傷つけられたのではないかと、そればっかり心配で仕方ない。雨後の竹の子どころではない配信の数々は、社会貢献やファンへの労りだけではなく、「自分が必要とされていると実感したい」という痛いくらいの切実さがあるのではないか。

こちらとしては娯楽も芸術も奪われた今だからこそ、こんな世界は真っ暗闇だと断言できる。奪われたからこそ必要なんだとこんなにもわかった。と、伝えるためにも足を運べる場所や時間が再び開かれてほしい。もう私は一日もはやく、と言うよ。