前に下がる 下を仰ぐ

木、金と休みをとって水戸に行ってきた。


水戸芸術館|山口晃展「前に下がる 下を仰ぐ」


山口画伯が一昨年なにかのイベントで言ってた通りの新作たくさんの展覧会。上野東京ラインの恩恵で思った以上に近かったけど予定通り泊まりで行ってきた。たぶん2回見たくなるだろうと思ったから。
美術手帖は買ってたんだけど

美術手帖 2015年 04月号

美術手帖 2015年 04月号

最新インタビューはどうもネタバレ満載っぽいので飛ばして、木曜の夜に宿で読んだ。そしたら案の定これを踏まえて見ないわけには!となったので翌日もう1回。
先に読んでたら1回で済んだけど、そうしなくてほんとに良かった。あれもあれも最後のあれも、自分で見て……と言うか自分の足で歩いて自分で振り向いたからの体験で、あれ先に知ってしまって一度きりの初見の驚きをちょっとでも殺いだら取り返しがつかない。


今回に限らず展覧会の名前は画伯の経歴にこの先ずっと載って、ずーっと残る。それを見に行く個人の初見の、わーっというあの驚きのどこにも残らなさ。美術史に関係ない、画伯の作品の評価とも関係ない個人的な体験は、後から画伯を好きになって経歴を辿っても見えるはずもなくて、でもきっとそれを見た人は何か感じたはずで、でもそれは歴史には全然残らない。


「見る」って言うのは、つくづく何なんだろうと思う。昔、「フランダースの犬」のネロがルーベンスの絵を見て「かみさま、もうじゅうぶんです」って言ってた時には「いや見るだけで良いなんて欲が無さすぎるだろ!」と本気で思ってたはずなんだけど、今回「忘れじの電柱」と「続・無残ノ介」が見られるとわかったときの私の小躍りっぷりね。ただ見られることがこんなに嬉しい。見たからと言って御利益があるわけでも、得になるわけでもないものがただ見たい。「見る」っていうと「情報を摂取する」って意味があって混乱するのだけど、それならネットで写真を見れば良いのでやっぱり「見る」と言う体験をしに行ってるんだよナァ。その体験をしたからと言って自分がレベルアップするとかでは全然なくてもそれでも。


ライブもそうで、これだけ「見る」ことに重点を置いた生活をしていると、だんだんどうすれば一番自分の気が済むかがわかってきて、今回はネタバレしないで泊まりで行って翌日改めて……と言うひじょーに贅沢なプランを採用した結果、たいへんに満足の行く鑑賞ができたのだけど、何を作るでもない見るだけの者が「見る技術」をこんなに磨いても何になるんだと言う気はする。
でもあの、誰に教えられずとも見えていたのに見ていなかったものが見える瞬間の、あの感覚に勝るものはないと思ってしまうから、やっぱりできる限りの工夫と無知でそこに臨もうとしてしまう。


個々の作品について言葉で書くことはできないんだけどずっと見たかった「無残ノ介」、正も続もたまんなくおもしろかったし美しかったしエキサイティングだったからほんとうに見られて嬉しい……。近所だったら毎週見に行くナァ。あとは「いのち丸」が見たい。どうにかこうにか見たい。


以下ネタバレ。未見の方は読まないでください。


初めにもぎりのところにいる学芸員さんから「今回山口さんによってかなり細かく導線が設定されていますので少し説明させて頂きます」と言われるとおり、思ったようには進めない順路は、少なくともふた通りの見方を労せずして獲得できる。結構すぐ訪れる「さっき見たあれが近くで見るとこうなのか」と言う体験の連続のあと、最後の「三猿」が出発地点にあったことに気付いて、スタート時の認識はもう取り戻せないと知る。あの痺れるような感覚。ここまでは予備知識なく体験できた。
美術手帖のインタビューを読んで、第5室から振り返るとそれまでの道のりが一望できると知り、翌日は各部屋の連なりを意識してみようとする。初日は、第1室に戻ってきたときショッピングモールの絵の前で何の気なしに第2室を振り向いたら左右の黒い壁がぴったり重なって、それより奥の照明が落とされて真っ暗になっているように見えて、むしろ断絶してると思ったのだ。


カメラが使える第3室で、デジカメの画面越しに第5室のどんつきの「前に下がる 下を仰ぐ」が見えることに気づく。カメラ通すと見えるものがあるの、あれ何なんだろうね。



「三猿」までたどり着いて、もう1回第1室の入口に戻ってみたら、「前に下がる 下を仰ぐ」が見えた。見えていたのに見ていなかったものが見えて、もう見ないことはできなかった。