モグフェス雑感

昨日はモグフェスに行ってた。今は何をしてるかというとドラゲナイを買って聞きながら上り電車を待ってる。エイトライブでなければパスしたんだがこればっかりは外せないので仕方ない。


今日はどう考えても仕事なんてできないだろうから休みをとってたんだけど、写真整理してブログ書いてできれば銀行でも行きたいな、あわよくばコントセンターに阿佐ヶ谷姉妹見に行きたいなと目論んでたんだけどまぁ無理だよね。昏々と寝てました。
昨夜帰ってきた時も座ったら終わりだと思ったからその足で風呂に入ったと言うのに、湯船で2時間も寝ていた。
見てる間は全然疲れないんだけど、やっぱりどっとくるなー。
ザンフェスの時も思ったんだけど1時間のライブを8本だから見られるんで、これが2時間のライブを4本だったら無理だと思う。1時間だと疲労を感じる前に終わる。またどのライブも数合わせが一切なくおもしろいのがすごい。


ザンフェスの内容が発表されたとき、思ってたよりずっとザンゼンジじゃなきゃできないライブばかりだったのに驚いた。今回のモグライダーも同じで、なのにそもそもの出発点が「くじ引き」と言うのがなんかもう壮絶だなと思うのです。
例えば料理を始めたばかりの頃って「これとこれを作るために材料はあれとあれとあれとあれを買ってこよう」と考えるけど、ある程度できるようになると「今家にあるのがこれとこれとこれだから、あれとあれを作ることにして足りないあれだけ買ってこよう」と考えるようになって、その方が圧倒的に楽だと気づく。全く自由であるより縛りが合った方がハードル(料理なら献立)は設定しやすくて、でもそのためにはたいてい何でも料理できる腕が必要で、K-PROさんにとっての耐久ライブとくじ引きってそういうことなんだと勝手に解釈している。


児島さんとナタリーの粟村さんのライブに行ったとき、粟村さんが「K-PROさんのフォロワーみたいな存在がでてこないと本当に成功したことにはならないかもしれない」と言うようなことを話してて(細かい言い回しは覚えてないですが)、続けて、「お笑いナタリーも競合他社が出てきてほしい、ナタリーだけで言ってても全く説得力がない」とも言っていて、その事をなにかにつけて思い出す。今のところ競合他社のいないK-PROさんは、それでも停滞しないためにちょうどギリギリ飛び越えられそうな耐久ライブと人知を超えたくじ引きと言うハードルが必要なんじゃないかと思う。


思い出すと言えば、モグフェスの間中、清和さんの
「それが見られないっていうようなことじゃないから」
と言う言葉を思い出してた。カラオケナイトで、ぽろっと言ったことで、ご本人べろべろだったからたぶん覚えてないと思うし私も一言一句正確に覚えてるわけじゃないんだけど、男性限定ライブの話をしていたときだった。文字にするとわかりづらいんだけど、恐らく、「そのライブひとつが見られないと言うことがさほど重要なことではない」と言うことが言いたかったんだと思う。その前に言っていたことも踏まえてさらに推測を加えると、「男性限定ライブは男性が来やすいようにと言う以上の意味はなく、それが見られないからと言って疎外感を感じたり損した気になったりしなくて良い」と言う事じゃないかと解釈している。


見るのが全てみたいな生活をしていると、見られない=おしまいみたいに思う。私ももし風松が絶対無理な日に単独やるとかなったら「私が見られないならいっそやらんでくれ」ってきっと思う。でも、自分が見られないものをやるなってのが無茶苦茶だってのはもちろんわかってる。
モグフェスはどうやっても半分は見られない構成で、体力に自信のない私からすると頑張って皆勤しなくても良いと言う気楽さが逆にありがたかったんだけど、やっぱりこれも見たかった……!と言う公演も多々あって、なんで被せるんだよー!と思うたんびに清和さんのこの言葉が思い出された。そうすると、私にとっては自分が見ることよりも、同時開催のフェスを行うことの意義の方がでかいって納得したんじゃないかってことも思い出した。
自分ひとりが見ることよりも、「見られない」ことによって生まれる別の価値の方が大事だと思えることなら見られなくても良いんだとわかった。男性限定ライブの時も。


ただ、オタクにとって「自分が見なくてもいいや」って思うのは終わりの始まりだというのもわかってるので、いかに固執しすぎず継続的に見るかってのはどのジャンルに行っても常に課題だなぁ。私はエイトの時もチケ取りが大変すぎて終いには「裕さんは良いよな、自分が行く先々でエイトコンがあるんだから」とか無茶苦茶なこと言ってたからな。


東京のお笑いで「ああいうことができる」と言うことのすごさ。それを構成するものひとつひとつの満足度の高さ。それを新たな試みとしてやっているときに見られるという幸運。単純に見たネタひとつのおもしろさ。自分がずいぶんでっかいものの中にいて、ずいぶん些細なものを見ているような不思議な感覚を覚えたのはハイジアとバティオスの裏口の間の路地だった。ばったり児島さんに会ってスタンプを捺してもらった時。


モグライダーのことはまた項を改めて書きたい。って書くとたいてい書かないんだよな。でも書きたいわ。確実に疲れていたのに悲壮感を出さないふたりのカラリとした芸人ぶり。常に陽の人たちで、スイッチオフしたところを見たことがない印象はまったく変わらなかった。ライブの間も、移動中も、エンディングも、耐久ライブを超えてもきっと変わらない強度を。