カワイイだけで大好きさ

風藤松原に嵌った瞬間、と言うのがはっきりわかっていて、初単独の幕間の音声で


松:ダンスフロアーの真ん中でブラックライトを浴びて光る木綿豆腐
風:(笑)
松:絹じゃなくて木綿と言うところをあなたにはわかってほしい
風:わかるよ。固いからね


と言うやりとりを聞いたとき。
思わず「可愛い……っ!」と口に出してしまい、後から隣で見てた同僚に「心の声が漏れてたね」と言われた。
当時の松原さんは35歳。風藤さんは31歳。30代半ばの男性が、「あなたには」わかってほしいと、同じく30代の男性に訴えかけ、それを、「わかるよ」と受け止める関係性を「可愛い」以外に表現できなかった。それで、また見たいと思ってすぐに翌週の「トッパレ×プレスリー」に行って、それが私のK-PROさん初め。


考えてみると、漫才師でも、コント師でも、好きなコンビで可愛いと思っていない人がいない。月笑に出てる人のことはほとんど全員可愛いと思っている。
火災報知器のどんどん楽しくなっちゃう先輩とうまく乗せる後輩は可愛いし、怒り狂いながらも2人にしかわからないテンポで声を合わせるマシンガンズは可愛いし、お互いの趣味に寄り添うダーリンハニーは可愛いし、独特の理論にベコベコにされる内藤さんは可愛いし、頭ごなしにしかりつけながらもずっと内藤さんと漫才をする山野さんも可愛いし、枚挙に暇がない。
トップリードに到っては、初単独ライブ「イッピキムスメ」を見たときは、それこそ可愛いしか出てこなくて、感想には全編それしか書いてない。


可愛いとしか言えない、なんて、我ながら安直だなぁと思うこともある。他の言葉を尽くしてその魅力を語りたいのに、結局「可愛い」に追いつく言葉がない。言葉が追いつかないと言うことは、認識も追いついていない。可愛いと思うものにはいつも、少しの畏れを抱いている。
そしていつも、この本に立ち返る。

オシャレ泥棒 (オリーブの本)

オシャレ泥棒 (オリーブの本)

その「こわい」はまるで「かわいい」と聞こえた。もしかしたら「カワイイ」の語源は「コワイ」だったんじゃないだろうか。人が、あまりにコワイものに出会った瞬間、悲鳴にならぬ叫びとともにあげた「コワイ」の声を「カワイ」と聞いたのでは? それにしても「カワイイ」ってなんてスゴいコトバなんだろう。どんなコワイ人でもギャングでも猛獣でも、ひとたび「かわいい(ハート)」と呼ばれたとたん、すっかりその力を失ってしまう。それは女のコ達が発明したフシギなコトバの凶器。そういえば、カワイイものってなんとなくコワイし、コワイものはしばしばカワイイ。コワイイなんて表現がピッタリなように。弱い女のコ達が、あまりにもコワイものに出会った時、そのコワイものの力を無化するため、魔除(よ)けのコトバとして、“カワイイ”という呪文をこしらえたんじゃないだろうか。

(太字部分は傍点)P.186「第十三章 世界の果ての愛以上の場所」


『オシャレ泥棒』は、「ミニー」と「ミッキー」と名乗るふたりの女の子が「カワイイ」を超えたもの、「オーバー・ザ・カワイイ」を探すために「オシャレ泥棒」になって東京中のカワイイ物を盗んで盗んで盗み尽くす話だ。
最後、ふたりはゴミの埋め立て地にたどり着いて「カワイイを超えたもの」を見つけるんだけど、それをここに書くわけにはいかないから読んでいただくとして、芸人さんにしろ、アイドルにしろ、歌手にしろ、私は、「可愛い」と思う人の向こうに、いつもその「カワイイを超えたもの」を見ている気がする。その「スルドクてトンガッている」ものを、どうにか受け止めようと「可愛い」と口にし続けている。畏れをどうにか身の内に収めるように、それはやっぱり信仰とか呪文とかに近い気がする。


先月号の装苑の特集は「かわいい。の先にあるもの」だった。

装苑 2014年 10月号 (雑誌)

装苑 2014年 10月号 (雑誌)

答えはもう『オシャレ泥棒』に書いてあるのに、それでも先を問い続けるふりをしてなかなか前に進めない。
「可愛い」にはいつでもその先があるように思われているけれど、それは「可愛い」が軽んじられているからではない。その先にあるものがあまりにも恐ろしくて手に余るから、いつまでも「可愛い」にとどまってしまう。
でもそれは逃げではなく、その先にある恐ろしいものを「可愛い」を通してでも、なんとか見据えようとしている果敢だと思いたい。
「可愛い」をお守りのように携えながら、それが身を焼くほどの恐ろしいものの片鱗だとわかってはいる。そんな恐ろしいものだからこそ、惹きつけられて止まないということも。




余談だけれども、久しぶりに読み返していて行き当たったこの記述。

バーゲンでさえ売れ残ったものだろう、半ば灰になったブランド物の同じ型のシャツが、タグが取りはずされ、今では名前を無くして何十何百となって焼け残ってた。ついにこの世で誰にも着てもらうことなく、おそらくは自分達を作った者の手で、火をつけられたのだろう。

P.181 同上

ちょうど今月の「海月姫」で同じことを見たじゃないか。プロパーとバーゲン品の違いはあれど。この本が出た1988年から四半世紀変わらないこれを、蔵之介は止められるのか。「資本主義のコドモ」のひとりとして、私のことでもあるのよ。