星座のない空

〜K-PRO10周年一週間ぶっ通し興行五日目〜
『児島気奈トークライブ・10―あの頃みんな若かった!?秘蔵映像大放出!―』


5/25 新宿劇場バティオス 18:00(後半)



後半はみんなで秘蔵映像を見た。ふらっと現れたさっさん(ゴッホ迎えブルー(笑))も交えて。


各ライブの初回とか、現在の常連の初登場シーンとか、児島さんが選んだ名場面とか。
いつだってライブに行くたび「こんなすごいものがたったこれだけの人数に目撃されるだけでどこにも残らないなんて」と思っていたものが突然目の前に現れたものだからそらもう大興奮。そしてなにより、趣味を同じくする人たちと映像を見て笑うってこんなに楽しいのか!と言う事が発見だった。
生でネタを見ているときも、もちろん客席の反応には自分の反応も左右されるけれど、映像だとそれがもっと強い。生だと演者と自分との関わりの方が客席と自分との関わりよりも強いけど(私は)、映像だと映像と自分の関わりが希薄な分、客席の連帯感を強く感じた。


K-PROさんに埋蔵されている映像の中にはこんなお宝がざくざくと……と思って、ちょっとそれは違うなと思った。泥の中に宝石が沈んでいるのではなく、等しく積み上げられたものが、そこにはあるだけなのではないかと。


記録にも残らないもの(いやK-PROさんにはあるってこのたび分かったけど)ばかりを見ていて、記憶はどんどん薄れていって、いくつかの強い印象を残すもの以外はまるでなかったかのように過ごしていく中で、それに違和感をなくさずにいたいとずっと思っていた。


ジャパニーズドリームの体現者である売れた芸人さんには、常に語られるエピソードがいくつかあって、それらをつないですごろくのように「上がり」である現在に到達する再現VTRをいくつも見てきた。
でも、エポックメイキングだけをつないで描く星座の外側にある、受けたりすべったりしていた日々はどこに行くんだろうと思っていた。とはいえ、語られない事も全部が今の彼らを作ったんだよ、と言われても、それはそれで違うような気がした。全部が全部身になるわけじゃなかろうと。


自分でもあまのじゃくだなぁと思うけど、結局、「後になってみれば」と言う視点を全部とっぱらって見ないと自分は納得しないんだとわかった。その時にいつも立ち返る漫画がかの「奥村さんのお茄子」だ。

棒がいっぽん (Mag comics)

棒がいっぽん (Mag comics)

初めて読んだとき、まっっっったく意味がわからず、いつか、わかるようになるまで読み返そうと思った。しかし15年以上経った今も、残念ながらわかっていない。
でも、わからないなりに、読み返すその時時で(描かれている事は変わらなくても)、違う解釈をしたり、わからなかった部分がわかったり、わかっていた部分がわからなくなったりするのが、私のこの漫画の読み方なんだろうと思っている。

聞かれたら答えたかもしれないですね


聞かれなかったから答えなかったけど
覚えてたら答えてたかもしれませんね


楽しくてうれしくてごはんなんかいらないよって時も


悲しくてせつなくてなんにも食べたくないよって時も


どっちも六月六日の続きなんですものね


ほとんど覚えてないような、あの茄子の


その後の話なんですもんね


このことについて考えると、今だに何もわかっていないと感じるし、うまく言うことなんてできない。
今思うことは、身になったとかならなかったとか、きっかけになったとかならなかったとかで瞬間の価値が決まることなんてなくて、ただ、その日その時の続きに「今」があるだけなんじゃないか。
そして「その時」があったことが確定されるのは、映像記録によってではなくその場にいた人がそれを見て、何かを思うことによってだけなんじゃないか。
「後になってみれば」なんて視線で振り返る事さえ必要なくて、いつもは忘れられていても、それでも。

あの三秒間
自分以外の誰かを見てその誰かについて考える
うどん三センチ分


ここんとこ


ここんとこにあの六人がいて
一瞬一秒同時にそれやったら


奥村さんもきっとあそこでお茄子食べてたことになります


名場面「小峠無双」の中で、ピテカントロプス大和田さんがエアチャーハンを披露していた。
ピテカントロプスが解散した今になって振り返り、あのエアチャーハンに対して何かを思う意味なんてあろうか。
あの時、客席も演者もエアチャーハンを見ていた。そして、エアチャーハンを見た後の今にいる。


お笑いナタリー|10年の思い&貴重映像満載、K-PRO児島代表トークライブ