全部ここ数日の話

金曜日、金属のように冷たい雨の降る中群馬県まで行ってこれを見てきまして


山口晃展 画業ほぼ総覧―お絵描きから現在まで


それに先だって17日、紀伊國屋サザンシアターに「年忘れ!山愚痴屋感謝祭」を見に行ってました。


第134回紀伊國屋サザンセミナー
すゞしろ日記 弐(羽鳥書店)刊行記念トークイベント 年忘れ!山愚痴屋感謝祭


私は美術に無茶苦茶疎いというか完全なる無知な輩で、一般常識レベルも持ち合わせていません。なにしろ横山大観が何やったかよくわかってない。
芸術に至ってはもうお手上げで、そもそも美術と芸術を区別して書くのもどうなんだか。
とはいえいいなと思った絵とか彫刻とかを見に行くのは普通に好きで、基礎がないのでそこに描かれているものを描かれているナァという風に見るだけですが、それでも見るのは勝手だし楽しい。こないだ行った福田美蘭展も、一緒に行った母にちょう有名な元ネタを解説してもらって見てました(母はけっこう詳しい)。
山口画伯の展覧会は、京都と横浜で1度ずつ見る機会があったにもかかわらず見逃し、いつか見てみたいナァと呑気に思っていたところたまたまサザンシアターでイベントがあることを知り、すわライブだ!と即反応するあたりつくづく人間というのは普段使っている筋肉しか使えないンですね。
とはいえ何も知らない状態でいきなりイベントも無茶だろうと、すゞしろ日記2巻のイベントと言うことは1巻があるはずだからとりあえずそれを読んでみて好きそうだったら行こうと決め、その日の帰りにオアゾ丸善で購入し、次の日に予約の電話を入れてました。

すゞしろ日記

すゞしろ日記

すゞしろ日記 弐

すゞしろ日記 弐


作品(の実物)よりも先に見てしまった山口画伯は、何が驚いたって身のこなしがすゞしろ日記に出てくる画伯とおんなじ! 奇妙な鼻歌はほんとだろうと思っていたけど、まさかあのキュートなしぐさが全部まんまとは思いませんでした。足をクロスさせて両手をぱっと広げながら振り向く40代男性……。
前半は客席からお題をもらって三題噺ならぬ三題絵をふたつ、後半は一年を振り返りながらのトークで合わせて2時間近く。その間ずっと、「山愚痴屋」の屋号に恥じぬ愚痴や小心をつぶやきながら、時折ズバンと放たれる一言の鋭さ、清明さ、視界の広さと視座の揺るぎなさに戦きっぱなしでした。
とにかく言うことの一つ一つがくすくす笑いを誘いながら、そんな一言にびっくりしてまた笑ってしまうの繰り返し。私がお笑いのライブ見に行ってる客でなければ「下手な芸人よりおもしろい」なんてうかつなことを言ってしまうであろうおもしろさでした。
(芸人さんのね、身を削ってでもおもしろいことを言いたくて言うことと、そうではなく言ったことで結果笑いをとることは、聞こえるのは同じ笑い声でも出発点が全然違うと思うのでね。客としてはどっちもおもしろいです。)
以前エルシャラカーニのしろうさんが清和さんのことを「尖ってる親父って言わないでしょ。頑固親父ですよ」と言っていたのを思い出しました。山口画伯は先鋭だった。でも、スタイルやポーズのような何かが尖っているのではなく、ひとそのものが錐のように鋭く見えた。あんなにキュートなのに。


で、そんな画伯ご本人も「来年は作品を描いて、再来年新作ばかりの展覧会を」と仰っていたので、やはり今年見ておこうと館林美術館に行ってきたのが20日金曜日。多々良駅から20分近く歩く間、人と1人しか行き会わなくて結構どうしようかと思いました。とにかく畑と民家、アパートメント、団地が続き、人が住んでいるはずなのにまっったく人影が無いのは山の中より怖かったです。平日の真っ昼間だったからかな……。雨降ってたから保育園の園庭も誰もいなかったし……。まあたぶん、車で行く所なんだと思います。
突然出てきた美術館の大きさにも驚きましたが(遠くから見えていたときは焼却場か何かかと思った)、美術館の前の広大な野っぱらの広さにも驚きました。あれ何用の土地なんだろう。畑だとしたら私の思う畑の5倍くらいの広さがあったんだけど。
学生時代の作品から最近の物まで、澱エンナーレの作品も少しあって、初めて見る私にはありがたい網羅的な内容で大満足でした。人も少なかったのでしっかり近づいてとっくり見たり、Tokio山水は腰かけてゆっくり見たり。天井から射す白い光と、作品の上に配されたすこし黄色い光を見て、ああこれが絵が一番ふくよかに見えるというあれかしらなんて思ったりして。


作品の一つ一つが、どんなにきれいでかわいくてかっこよくて文字も達筆で……なんてことをいくら言ってもきりがないと思うし、あの作品に追いつく褒め言葉を持ち合わせていないので書けないのだけど、ただ、この無知かつ鈍い私にも、「これを描くことによってこれではない何かを描こうとしているんだろうな」と言うことがわかるという点でとにかく希有な絵だと言うことはわかりました。
私は写真の鑑賞というのも出来ないタチで、りんごが写っていたら「りんごだ」と思うし汽車が写っていたら「汽車だ」と思うので、長いこと写真集や写真展の意味がわかりませんでした。

花火

花火

この写真集を見たとき、そこに写っているのが知らない街の知らない花火であるのに、自分が小さい頃に行っていた近所の神社のお祭りの日のそわそわや、だんだん日が落ちていく感じ、もうお祭りは始まっているのに自分がまだそこにいないと言う走り出したいような焦燥感や、そういった物がありありと胸のあたりによみがえって、これが写真を見ると言うことかと初めてわかったのでした。なるほど、写真を見ることが出来る人は全ての写真にこれを体験できるのか。そりゃ見るわ!と。
だから絵も、睡蓮が描いてあれば「睡蓮だ」と思うし、川縁に人がたくさんいたら「川縁に人がたくさんいるな」と思うという……たぶん鈍いのが行きすぎて、見ているけど見えていないのと同じ状態で見ているのが常なのです(そんでこの例えでおわかりのように印象派が特に全くわからない)。
そんな私の閉じた目で見ても、描いてある物ではない何かを描こうとしている絵だと言うことがわかるというのは、これはもうすごいことで、でももちろん描こうとしている「何か」はさっぱりわからないのですが。
そもそもいちばんはっきりわかったのも、「頼朝像図版写し」でした。それも、まず濃い方の原本と写しを見て「おおおんなじだ」と思い、次に薄い方の原本と写しを見て「おおこっちもおんなじだ」と思い、そこで1回見終わって、原本同士を見て「しかし左の方の処理をしたオペレーターはずいぶんガーンとトーンカーブ上げたもんだな。布の柄はきれいに出てるけど顔が白っ飛びしそうじゃないか。下を止めといて上だけ削れなかったのか」と思ったところではっと、ああ、この2枚の写しはそういうことか!とわかるという、鑑賞ではなく完全に印刷屋的感想によって気づくって…もう書いててほんとに鈍すぎてどうなんだろうこれ……。


山口晃 大画面作品集

山口晃 大画面作品集

鈍いなりに色々と見て、どうしても欲しくなってしまって群馬からこの重い画集を担いで帰ってきたのだけど、これがほんとうによかった。椹木野衣氏が寄稿された「美術と工学と憂国と―山口晃の芸術とその理念をめぐって」の中で、「何か」をはっきりと書いてくれていた。

 思うに、ひたすら描くことを通じて彼が追求しているのは、絵画そのものではなく、それを超えたところにある、「日本で芸術をなすこと」についての理念ではあるまいか。

これは芸術のげの字もわからない私にわかるわけがない。工学と憂国のからむ歴史的な美術の起源に至ってはもうわかるとかわからないとか言うのも失礼な気がする。でもわからないなりにこの文章を何度も読んだ。わかった気になるためではなくて、こんなにも知りもわかりもしないことがあると言うことが楽しくてたまらなくて何度も読んでしまった。


さっぱりわからないなりに、絵を見ていて、画伯は、ひとつの画面の中でひとりでボケも、ツッコミも、そのツッコミの解説までしているので(絵から読み取った訳じゃなくて文字で書いてあるからわかる)、この人は、ずいぶんと孤独か、味方のいないことをひとりでやっている人なのかなと美術館で絵を矯めつ眇めつしている間中思っていました。
これは普段、常にふたりでいる芸人さんばかり見ているせいかもしれないけど、すごくたいへんなことをひとりでやらなければならない人なのかなぁと。
ピン芸人が孤独に見えるかというとそうではないのは、あの人たちはボケツッコミを明確に分けてネタをやらないからです。画伯ははっきりと役割を分けた上でそれを全部自分に割り振っているように見えました。)


そんなわけですっかり魅了されてしまいまして、美術館でもう一冊買ったこれと

イベントの時に買ったこれを同時に読みつつ
ヘンな日本美術史

ヘンな日本美術史

寄稿していると聞いてアマゾンで検索したらKindle版があったので即これを買い(すゞしろ日記まんまのカラーが2頁!)あとこれも買わないと。
西原理恵子の人生画力対決〈5〉

西原理恵子の人生画力対決〈5〉

さらに、英語版は挿絵が多いとすゞしろ日記で読んで検索したらこっちもKindle版があったので購入。そしたら挿絵がカラーだし拡大できるしでもう最高! 展覧会の中で1、2を争うほどこの挿絵が好きだったのです。なぜ挿絵だけで本を出さないんだろう……。
Chronicles of My Life: An American in the Heart of Japan

Chronicles of My Life: An American in the Heart of Japan

Kindle版の書影が出ないんだけどリンクはこちら。


そんな感じで急激に山口画伯関連の本が増えているこの数日です。大好きな『高丘親王航海記』に画伯が挿絵をつけた版があるっぽいのであれはぜひ欲しいナァ。調べたらどうもこれっぽい。

獏園 (ホラー・ドラコニア少女小説集成)

獏園 (ホラー・ドラコニア少女小説集成)

で、最後の懸案事項は東京新聞をとるかどうかですな。図書館でどうにかなるのかなぁ(図書館に行く習慣がないのでよくわからない)。ほんと、新聞小説の挿絵の地位の低さはどうにかならんですかね。「ねたあとに」は母が、「聖なる怠け者の冒険」は私が、1回残らず切り抜きました。


未知のジャンルで自分が無知と言うことだけはわかっていて、それでも知りたいと本を読むこの期間の楽しさは何物にも代え難いですね。なにしろ知らないことしかない。そしてなにもわからなくても、「透明な刃」で「全身をなます切りにされ」る恐怖におびえながら、対象の新しい動きを待ち、見に行くことができる。どんなに遅れても同時代にあってよかったです。