青春の城

普段しないことをしようとしたときに真っ先に思い浮かぶのが「旅行」と「映画」と言う人間である。なので水曜日は「夢と狂気の王国」を見に行ってきた。
ジブリはすーごく好きでもなければすーごく嫌いでもない。最後に劇場で見たのが千と千尋で、「耳をすませば」だけが極端に好きでテレビでラピュタやってたら見ちゃうよねと言う日本国民として至極平均的な距離感だと思う。
なのになぜ(しかもその日行ける映画館レディースディなかったのに)これを選んだかと言うと、なんか良いバディものが見られそうだと思ったからだ。そんなに好きか大好きだ。結果予感どんぴしゃ。ネタバレって言うのも変かとは思うが以下ネタバレ有り〼。


映画で語られている以上のことはほんとにひとつも知らないので、宮崎監督と高畑監督がなんで袂を分かったのかもなんでふたたび一緒になったのかもさっぱりわからないのだけど、それでも、「風立ちぬ」が完成した後に高畑監督が表れて3人がスクリーンに揃った時には不思議と涙腺が緩んだ。なにも知らなくても、ああこの3人がジブリなのかと言うことはわかる。ジブリと言う名前すら後付けで、この3人が「そう」なんだと。


私はトトロをどストライクの年齢の時に見ている。その強烈さもあいまって、「ジブリ」はブランドすら超えた巨大なハコモノのような存在だと思っていた。そこから出てくるのは他に比べるものすらない、そしてすごく人を動員するアニメだけと言う一種異様なハコモノ
この映画を見てそのイメージはきれいになくなった。ジブリは、白亜のハコモノではなく、ものすごく個人的な才能たちの青春の城だった。
鈴木氏が若いころを回想して話していたシーン。ずっとジブリに詰めていて、深夜1時に新橋の徳間書店に戻ったら、そこに宮崎監督(たぶん。高畑監督かもしれない)から電話がかかってきてそれから打ち合わせをしたいと言われたと。その時彼はどう思ったか。「ああ、俺ほっといちゃったんだなぁって」思ったと言うのだ。サラリーマンが、勤めの他にそんなすごいものを抱えて、出て来たのは不満でも愚痴でもなくて年近い監督を子どものように思い遣る言葉だった。ジブリは天才と天才と天才が魔法を使ってぽんと出現させたのではなく、たった一人ずつの「宮さん」「パクさん」「鈴木さん」が寄った時に初めて形を得たのだろう。つまりその3人でなければ、たちまち雲散霧消するのだろう。誰よりもそれがわかっているから、ジブリの未来を問われたときに宮崎監督は「わかりきってる。やっていけなくなるんです」と言ったのではないか。


この先、青春の城が青春の碑になって、苔生していく間もジブリは新しいアニメを作り、そのたびにかつての作品と比較されるのをたぶん嫌でも目にする。そのときに、あの陽光溢れる屋上にいる3人の姿を見ておいて良かったときっと私は思うだろう。これまでのジブリ映画と、これからのジブリ映画を比べてなにか言う人がいたら、あああなたはあの屋上を見てないのねって、それですませてしまおう。最初に書いたとおり私は特にジブリ好きじゃないから、何か言われているのを見ていちいち傷ついたりしないけど、手のひら返し&上げて落とすの誰かの常套手段にいらいらしなくて済む。そんなつまんないフリーフォールにつきあっている暇はないのだ。


しかし青年期・壮年期・老年期と全部見て、老年期の宮崎監督の図抜けたかっこよさはなにごと。