毎日のアイドル

テレビドラマを見ることができない。おもしろいと思っていても、続けて見ることができない。過去に見通したドラマはほとんど再放送で、それは、まとめて一気に見ることができたからだと思う。私にとって、ドラマは「作品」よりも「習慣」のちからが強いもので、週に1度1時間テレビの前に座っていると言うことがどうしても習慣にできない。
だから、クドカンが朝ドラを作ると聞いても、見たいけどきっと見られないと思っていた。朝ドラは、特に「ドラマ」と言うよりも「習慣」だ。とてもじゃないけど無理だと思った。
ところが予想を覆し、「あまちゃん」を毎日楽しみにしている。仕事から帰ってご飯を食べた後だから23時ごろ、ライブなんかで遅くなった日は次の日の朝化粧をしながら見ると言うのがするりと「習慣」になってしまった。たぶん、15分間だから既存の習慣に組み込みやすかったんだろう。なにより、ほんとうにおもしろい(ただ過去にほんとうにおもしろいと思っていて脱落した作品がたくさんあるのでこれまで脱落した作品がおもしろくなかったわけでは決してない)。
朝ドラ特有の「主人公の生活が軌道に乗ったから安心して脱落」の可能性がまだ残っているけれど(ゲゲゲもカーネーションもそうだった)、今はただただ目が離せない。


以前「我が輩は主婦である」すら脱落したため、きっと見られないと事前情報を全くいれていなかったのだけど、どこかでクドカンが「地元のアイドルの話です」と言っていたのだけ読んだ。なるほど海女さんが人気出ちゃうのねと、そのときは思っていたのだけど、ここまで見て、もっとずっと大きく大きく、「アイドルのドラマ」なのだなとわかった。このドラマには、アイドルを愛する人しか出てこないのではないかとすら思う。
毎日どこか一カ所で声を上げて笑っているけれど、ユイちゃんを見に来た鉄オタの皆さんが夕暮れ時にみんなで北鉄に乗っていたシーン、あそこではじめて、泣きそうになった。鉄オタの皆さんは、写真を撮ったり、撮った写真をお互いに見せ合ったりして、こころから楽しそうな様子だった。そこにはユイちゃんすらいなかった。
他の誰から見ても価値のわからないものに価値を見いだし、それを楽しみ、心の支えにすることを非難するどころか揶揄するどころか、あんなに美しく描くことができるのか。
何かを好きになって、それを支えにすることを、全力で肯定されたような気がした。


私は楽しいものとか、好きなものばかりを選んで暮らしている。ライブばっかり行っている。ほんのいっとき、見るばっかりで自分がなにもしていないことにむなしさを感じたこともあったけれど、楽しみがないと会社勤めだけではしんどいと言う至極単純な理由に思い当たってからは余暇活動なんだからそれで良いのかと思っている。
それでも、残るのは、しんどさに対して楽しいことを受け取りすぎじゃない?という罪悪感のようなものだ。勤めてはいる。働いてはいる。たまに忙しくはしているが、なんとなく私がいないと何人かが不便をするという微妙なポジションで、それもたぶん半年もあれば替わりの効く役割だ。替わりが効くというのはサラリーマン最大のメリットなので、それについて別に不満はない。
良いものを見れば見るほど、自分が日々成すことの少なさと引き比べて、お釣りが払えないような気分になることがある。それは結局、私が子供を産んでも育ててもいないと言う一点による。


こんな、誰でも見られるところでこういうことを書くと、同じ独り身の他人を責めているように思われるかも知れない。無駄かも知れないが、そんなつもりは全くなくて自分のことだけ言っている、と書いておく。独身だからどうこうではなく、ただひとり自分の為し得たことのあまりの少なさを、自分だけがいちばんよくわかっているからこんなことを思うのだ。私は大きな仕事で人の役に立つことも、趣味の楽しさを人に再配布することもできていない。仕事にしろ趣味にしろ、日々を費やしていることに対して、誰かに「子供も産まずに何してるの?」と言われた時に、私は返す言葉をひとつも持たない。
しかし現代、こんなデリカシーのないことを聞いてくる人はいないもので、いっそずけずけ「なんで結婚しないの?」と言われたらへらへらと「結婚しないんじゃなくてできないんですよー」という準備はできているのだがそれを言う機会もなく、言い訳すらできずに(する気もないけど)、ただおおっぴらに、つらい、疲れた、大変だ、と言うこともできないでいる。誰に言われたわけでもないのに「子供も産んでないのに何が大変なの?」と言われそうで言えない。


それでも毎日働くのは大変だから、生活していればつらいことも悲しいこともあるから、黙って好きなものを支えにする。ライブだけじゃない、本も、漫画も、詩も、短歌も、俳句も、お笑いも、アイドルも、歌も、全部の力を借りて、私はやっと大人をやっている。とはいえちっとも一人前と思えない。
先のクールの「泣くな、はらちゃん」は第3話から見て、途中1話飛ばしたけれど最後まで見られた。ラストシーンが流れてから15分間、泣き止むことができなかった。フィクションは、心の雨をよける傘だ。傘を携えて生きていて良いんだ。あのシーンの傘を差し掛けるはらちゃんと、差し掛けられて笑う越前さんの姿は、私にとっても新しい傘になった。


自分で楽しいものを選ぶのではなく、理屈抜きに家族のためにがんばれる人に敵わないという気持ちはずっとある。それでも、自分一人のためにがんばることとそれに支えを持つことを、悪いことじゃないと自分以外の誰かに言って欲しかった。
あまちゃん」の登場人物は、みんな誰かを、何かを好きでいる。身近な人も遠いアイドルも鉄道もウニも海も、誰かの明日を頑張るための支えはみんなアイドルで、アイドルを支えにすることをただ賑やかに楽しく美しく描く。そんな「あまちゃん」を支えに、きっと明日もひとりぶんがんばる。