君にも僕は求めたい

5/23 角座若手開幕シリーズ第6夜「うしろシティの日」
松竹角座 19:00
(以下、ネタのタイトルは自分で勝手に付けてます)


うしろシティを初めて見たときのネタは「2人の転入生」だった。すごいコンビがいたんだなと思い、それから毎回、どのネタでも見る度にすごいすごいと言っている。
自然体すぎて底知れない演技力も、百発百中で笑わせる鉄板ワードもすごい。
私がことさらにすごいと思ったのは、最初のあのネタで、「たぶんこの2人はこういう人なんだな」とわからせたからだ。わからせたといっても、その時点でも今でも私はふたりの人柄についてはほぼ知らない。だから、私が感じたキャラクターの個性が、ほんとに人柄に即しているのかどうかなんて、たぶんこの先もわからない。
でも、どのネタでどんなキャラを演じているのを見てもそのイメージがぶれない。むしろ補強されていく。少し聞いたトークにも、ますますその思いを強くした。
私はうしろシティの、演じながらにして演者である自分たちの個性を見せることのうまさにいちばん感嘆した。


漫才を、人柄の延長でやらないと嘘になってしまうと言ったのはオードリー若林氏で、これは至言だ。誰がやってもそこそこおもしろい漫才ほどつまんないものはない。
うしろシティを見ていると、コントでも同じことが言えるんだなと毎回思う。「人柄の延長」よりは少し意味を広くとるけど、芸人はやはり、演じる中にその人そのものが見えたときがいちばん魅力的だ。まったくの別人を演じるだけとは、不思議と歴然と違う。


うしろシティのコントは、ボケとツッコミという分け方よりも、「おちょくる方」と「おちょくられる方」という見方をしている。阿諏訪さんと金子さん、どっちがおちょくる方でどっちがおちょくられる方かはコントによる。ただ、おちょくっている方におちょくっているという自覚はあるときとないときがある。
今回の単独で言うと、「転勤」での阿諏訪選手は、金子先生を揺さぶり続けるが本人はいたってまじめに情報を小出しにしているだけで、おちょくっている自覚はない。
「居酒屋」では、わざと注文を続けて金子さんを追い込む。
「イベント番長」の金子さんは終始まじめだけど、阿諏訪さんの常識の斜め上を行きつづける。
「初めてのローマ旅行」も、金子さんはひたすら天然。ひょうひょうとしてる分、阿諏訪さんがかってに妄想をたくましくしていく。
片方が片方をもてあそぶように見える。その実、おちょくられる方の絶妙の受け方があって、コントがどんどんどんどん高まっていく。


映像のパートを見て、なんというか、感心した。企画であることをさっぴいても、このふたりは、お互いに対してお互いがなにしてもいいと思ってるんじゃないか。
ひどいことも無理なことも、投げる相手が受け入れると言う信頼、相手が自分を信頼していることへの確信、お互いがその両方を持っていることがありありとわかる。
全ての信頼し合う芸人に言えることだけど、自分の体以外に、自分が好きにできる体、自分の意に沿う体がもう一人分あるって、どんな気分なんだろう。想像がつかない。
ネタをやっている間もずっと、この相手ならばこれができると言う確信に基づいて丁々発止を繰り広げる。あのふたりが当たり前の顔でやることは、あのふたりでないと絶対にできない。
私が知るせまい範囲で、面白い芸人のネタは、すべてそうだ。そうでないと面白くない。しかし、うしろシティには、ただそれをやるだけでなく、見てる方にまで「これはこのふたりだからなせる業だ」ということをやけに強く意識させる何かがある。
「このふたりだからできる」と言うことを、本人たちが強く自覚しているのかなぁ。それがあふれて伝わるのだろうか。この人とだからできる、だからこの人を大事にしようというどうしようもない思いやりが根底にあるから、おちょくりおちょくられるふたりが可愛くてしかたない。
漫才の方が、演じる者の個性や関係性がわかりやすいと思う。コントでこんな風にあやまたず毎回毎回、小説の筋に没入しながら同時に作者の筆力に感服するようなことがあるのか。
うしろシティのコントは、あんなに楽しくて幸せなのに、ふっと恐ろしい。このふたりがどこまで行くのか。
二人分の体を得たふたりの跳躍力が、単純に二倍でないことはわかる。でも、うしろシティの最高到達点がどこまで行くのか、予想もつかない。


うしろシティの日」は、期待通りの単独ライブだった。そしてすぐ期待する。次は新ネタばかりの単独ライブだ、と。それはきっと、期待を超えてくる。そう思わせるのがうしろシティだ。