読んでも読んでも読まなくても

ぶくおふに送った段ボール13箱の内訳がメールで来ていた。

113点
コミック 107点
雑誌 11点
CD 13点
DVD 13点
合計 257点
お値段がつかなかった商品 199点


部屋には本棚が3竿あって、どれも前後2列でぎゅうぎゅうに入れていた。これが私のキャパシティで、それだけは持っても良いんだと思っていた。持つべきと。


本棚を一杯にするのは脳ミソを体の外に置くようなものだと思っていた。パトレイバーのゼロ式みたいに。
ちがってて、覚えていることと覚えていないことあわせて読書と言うのだそうだ。いつでも正しい出典にあたれることより、忘れたことを含めてなにを読んだかが肝要なのだと。


私の理想の読書とは、ついには本になることだったのだろう。『華氏451度 (ハヤカワ文庫 NV 106)』がふかくえいきょうしているものと思われる。名前をなくしてただ一冊の本のタイトルで呼ばれるような人生。
本を読む主体が自分だと思ったことがなかったような気がする。書かれていることがすべてでそれがいちばん正しいから、ちゃんともとに戻れるようにしておくべきなんだと思っていた。主体は本だった。
覚えていることと、忘れていることと、誤解していることも、それが自分の読書で、読み間違いも含めてそれが私に読まれた本の内容なのだ。
と、この本を、飛ばし飛ばしに読んで思った。飛ばし飛ばしに読んだのも、それがこの本の私にとっていちばん良い読み方だと感じたからそうしたのだけど、それも希有なことだった。ふつう、前から順番に読んで、自分の意志で読むのを止めた本はこれまで2冊だけで(読むつもりで途中の本はいっぱいある)、スピンはそのままの形で挟んでおきたい。そう言う読書をしてきた。

本は読めないものだから心配するな

本は読めないものだから心配するな

半分にもならないけれど、本棚はガラガラになった。ちょっと気になる程度の本でも、気軽に買えるようになった。読んでまた手放す本がたくさんあるだろう。
脳ミソを失った感覚はまったくない。身に付いていなかったものがより遠くへ離れただけだ。風通しが良くなった。