日記が書きたいだけだった

Twitterの仕様変更で色々大騒ぎで、私もどうすっかなという感じなので、考えをまとめるために久々にフリックじゃなくてキーボードで書いている。

話を分けて考えたい。仕様変更の順序としては逆になるのだけど、書く側としてのTwitterについて。
私はそもそもライフログを取るのが好きで、と書いたところで「ライフログ」でググってみたら、ライフログというのは本当に起きてから寝るまでどう活動したかの記録、みたいな定義が書いてあったのでそれだとちょっと違うなと思った。
そこまで細かいことじゃないけれど、言ったこと行った場所の記録を取るのは好きで、旅行行ったりするとGoogleマップの位置情報ずっとオンにしておいて、あとから移動手段とかも全部埋めて、自分の移動が数直線みたいになるのが好きで眺めたりしている。
でも、それをいちいち自分でやるほどのマメさはなくて、言ったことが勝手にタイムスタンプ付きで記録されて欲しい、あとからそれを見返したい、という希望がうっすらずっとある、という程度だ。
それはどちらかというと、ライフログアプリではなく、日記アプリの領分で、実際昔は日記アプリを使っていた。
が、一度そのアプリが開発終了して中身が吹っ飛んだトラウマがあり(一応バックアップは取れたがcsvをどうこうしようというほどの情熱はない)、ひとつ大問題として私は「誰かが見るかもしれない」という前提がないと、とにかく愚痴と文句と悪口しか書かないのである。
一度Twitterをやめて「瞬間日記」を使っていたことがあるのだが、もうとにかく怨嗟と雑言が酷くて読み返すと気分が悪くなるのでその辺のログは大体消してしまった。
ちなみに前に使っていて中身が吹っ飛んだ日記アプリは、ほとんどの日がインスタとTwitterから投稿を拾ってきてるだけで、そこに何か書くことはあまりなかったのでそこまで酷くなかった。
なので、開発終了の危険性と、自分の性根の悪さのため、アプリで完結しているものは使えない。アプリで書いてもWEBに公開されるものなら、サービス終了時にデータを取り出すのが比較的簡単だろうというのもある。

でまぁ、ここ数年はそれを全部Twitterとツイログに頼っていた。それが、ここ最近の仕様変更の嵐で、Twitterにログがあってもそれを参照できなくなるかもしれないという危惧が現実味を帯びてしまった。
APIの使用制限で、ツイログそのものがなくなるかもしれないとなると、Twitter自体の検索でログを探し当てるのは面倒だし、それ以前にもう自分のログのダウンロードにすら金かかるようになるんじゃないと思う。
別に大したこと書いてるわけじゃないし、なきゃ困るというほどのことでもないけど、昔のことをたまに参照して楽しむというささやかな趣味がなくなるのは嫌だ。ちなみにここ数年で一番面白かったのは、ドゲンジャーズにはまってから悪の秘密結社とキタキュウマンの馴れ初めショーがあったと知り、「こんな楽しい催しをやっていた日に私は一体何をしていたんだ」とログ見たら、月9の「デート」の再放送にはまって「こんないいドラマをやってた時に私は何をやってたんだ」とまさにその日に嘆いていた、という他の人から見たら何が面白いのか全然わからないようなことである。
なのでもう、日記がわりにTwitterは使えないな、というのが、ひとつ結論。


もう一つ、見る側としてのTwitterについて。
これはもうfeatherが無くなるということに尽きる。featherが無くなるということは、単に読みづらいとか広告が入ってくるとかそういう話ではない。私にとっては。
私はfeatherを使って、Twitterから入ってくる情報をめちゃめちゃ絞っていたのである。ということが、公式からTLを見てよくわかった。
公式のTLから得られる情報量が本来なのだから、そっちに慣れるしかないのはわかっているのだけど、だとすると私にはTwitterの情報量はキャパオーバーというか、おすすめやらなんやらでフォロー外の情報まで摂取させられるなら、もう有害なノイズの方が多くなると言ってしまっていいと思う。だから多分9日でfeatherが本当にお亡くなりになったら、ちょっともう色々無理だと思う。
私は、単に「フォローした人のツイートが読みたい」のではなく、「フォローした人のツイートしか読みたくない」のだ。
で、読みたいものが読めないよりも、読みたくないものを読まされる方がストレスとしてずっとでかい。
情報は毒と一緒というのはネットを使い始めた数十年前からずっと思っていることで、いらんもん摂取してたら絶対体に変調を来す。
一応色々頑張ったんですけどね。現時点で一番いいのはリスト表示なのだけど、リストって「RTを表示しない」にしておいても全部RTが表示されるんですよね。あれでもう無理(ほとんどの人のRTを切っている)。
Twitterのいらん機能全部殺すプラグインも入れてみたんだけど、「フォロー中」のTLから「おすすめ」に表示するものは間引いてる可能性があるというのを見て、じゃあ「おすすめ」非表示にしたらやっぱり見逃すってことじゃんと挫折した。
なのでまぁ、featherがほんとになくなってみないとわからないけど、多分今までのようにTLを全部見るのはもう無理だと思う(全部見てたつもりでもう間引かれてたのかもしれないけど)。

しかしいろんなものの公式がまずTwitterから情報を出す(ていうか下手したらTwitterからしか出ない)現状で、全く見ないというのも無理だし、そもそも仕事というかAdobeの不具合の情報はTwitter見てないと入ってこないので、アカウントを消す気はない。
あと、テレビの実況は、ほんとにTwitterでないと意味がない。で、これは、この後の話とも通じるのだけど、私はここ数年、Twitterのことを公開アンケートみたいにも使っていた。
それは便利でもあるのだけど、あらゆる企業も個人も簡単にエゴサ・パブサできてしまう場所で、いちいちこれ書いたらこういう人が反応してしまうかなと気にして書きたいことも書かない事が増えて、それってもう意味あるのかなという気がしてきた。
本のタイトル書くだけで、出版社も著者も飛んでくる場所で感想も書けないよポイズンというか。
エゴサしてる側からすればなんでもいいから書いてくれという程度かもしれないけど、あわよくば第三者がバズらせてくれと売り手が目の玉爛々と光らせている中で無邪気になんか書けと言われましてもというか。バズらすのとか無理だけど。

今にして思うけれど、私がライブ行ってた頃の芸人さんたちの、絶対エゴサしてるのに「俺ら素人の感想なんて気にしてねぇし」というスタンスには本当に救われていたんだなぁ。絶対見てるのに、絶対ふぁぼもRTもしなかった。それでうちらは好きにワイワイできたんだと思う。ほんとに。
時代は本当にあっという間に変わるねぇ。今は、推しから反応がないとつまらないって推すのをやめてしまう人もいるだろう。

今いるLH界隈は殊に(いや全然未知のVtuberとかもそうかもしれないけど)フォロワー数=戦闘力、RT数=営業力という世界で、その同じ地平でアカウント持ってるなら、一票持ってるのに投じないようなもんだよなーと積極的にRTとかしてきた。一応。
モブのワーキャーが必要な人たちに、モブがワーキャーを届けているだけなので、まあ別に双方に損がなくていいかなくらいだったのだけど、やっぱり常に誰かの視線を意識しているなんてのは、無理だった。


最後は、ちょっともうTwitterのやり口が気にくわねぇっていう、ほんとにただのいっときの感情です。
営利目的の一企業で、その方針が変わっただけというのはわかる。無料で使ってるんだし、文句言うなら使わなきゃいいだけというのもわかる。
ただ、Twitterってのは、プラットフォームでありインフラじゃんという気持ちがどーーーしても拭えない。コンテンツは私含めた有象無象のユーザーのつぶやきじゃん。お前は水道管であって水じゃないからな⁉︎という気持ちにどうしてもなってしまう。
インフラ整備に金かかるのはわかる、維持費が必要なら出す、だけど蛇口捻ったら捻った分だけの水が出てくる水道になら出すけど、出たり出なかったり出過ぎたりゴミが混じってたりしてますが現状っていう。正直水が枯れてえらい目にあってしまえという気持ちもある。
あとやっぱサードパーティにしろAPI使ってたアプリにしろ、そんなことしたら困るってわかってるのにあまりにも急(っていうか事後報告)ってのはもう、なるべくそういう企業の片棒担ぎたくない。よくも私のfeatherを(私怨)。


さてそれでも検索ができて衆人環視の場に何か書かずにはおれないので、Trickleを始めてみました。

trickle.day

Trickleの説明は開発された丸山さんのブログに譲るとして、私はこのブログを読んで「とにかく書きやすそう」、そして「この人が作ったなら万が一サービスが終了する事があっても、ログを持ち出せるようにしてくれるだろう」と思ったというのが選んだ理由として結構大きいです(縁起でもないことを申し訳ない。あらゆる愛用品が廃盤になり愛読誌が休刊になるもので)。

blog.h13i32maru.jp

blog.h13i32maru.jp

今あるトピックは「日常」「お笑い」「福岡・LH」「本」です。ご飯の写真はこれまで通りインスタです。
ちょっと使っただけだけど、すごいのびのび書ける感じ。害のない憶測であってもTwitterだと検索で引っかかって誰か詳しい人から訂正入りそうと遠慮してたことも臆せず書いている。
誰が言い出したのか知らないけれど「SNSは人類に早すぎた」というのはほんとそうだと思っていて、あの、「誰に宛てられたものでもない文章を自分宛だと思い込んで逆上する」というのはTwitterみたいなSNSでしか起きないので、書かれた場所がSNSでないだけでそれは起きない。それだけでこんなに気楽なのか、という気持ち。まぁブログもそうだけど。
あとはもう単純に「ドゲンジャーズ4期楽しみー」とかめちゃめちゃ中身のない、エゴサに遠慮してたようなことを。

Twitterでは変わらずテレビの実況はするし、ツイートで読んだことの反応をTrickleで書くのも変なのでツイートすると思います。イベント行けたら写真も上げるし、素敵な絵を見たらわーわー言うと思います。
自分の中でTwitterのウエイトを下げて、TwitterでないとできないことだけはTwitterで、と、意識しないといけないほどTwitterに依存してたのはよくわかった。
はてなの人ってみんなそうじゃないかと思うんだけど、最後にははてながあるからって思いつつ、はてな書く時は構えちゃって(しかし書くこと自体はやめられないので)どんどんSNSに蓄積していく……みたいになりがちなんだけど、Trickleで書いてて長くなりそうだったら気軽にはてなで上げてもいいのだし。
自分が書きやすい場所に、自分が読み返しやすい場所に、自分が書きたいことを書くしかないのだよね結局。それが人から見つけやすい場所である必要はない。日記なんだから。

うどんの伸びない距離

ハクハクに置いてあって、アミュプラザ丸善に在庫があったので買って帰ってきた。「アミュプラザ博多・シティダイニングくうてん限定サマー抽選会」のチラシを栞にして読み終えた。
サブタイトルの「半径1時間30分のビジネスモデル」が、ランチェスター戦略のことかと思って読み始めたのだが、全然違っていて、牧のうどんの麺と出汁が劣化せず運べる時間の限界のことだった。
「おわりに」に書かれた、博多うどんはただうどんを持ってくるだけではダメで、博多の環境を全部一緒に持ってこないと繁盛しないという点は、うどんに限ったことではないなぁと思った。
福岡にかぶれる前からやわらかいうどんが好きで、大阪の釜たけうどんが八重洲にできた時も行ったのだけど、おいしいけれど大阪のものとは別物だった。滋賀のケーキ屋とパン屋のクオリティが異常に高いことからも、粉物は水が変わったらもう別物だと知っている。なのでダコメッカとアマムダコタンもきっと別のおいしさだろうと思っている。あまりに並んでるのでアマムダコタンは行っていないが。
そういう品物の品質そのものとは別で、うどんに限らず福岡のものは、あのコンパクトシティの、人と人の距離が違い、人が人として接するあの街の中で、見たり聞いたり食べたりしないと別物なんじゃないかと何度か福岡に行って思った。
福岡の人がどれほど自覚的に福岡のものは福岡の環境あってこそと思っているかはわからないが、こっちが行かんでもそっちが来ればよかろうもんとは、思っているんじゃないかと思う。ちなみに福岡は東京に官製のアンテナショップがない。「ザ・博多」は私も重宝しているけれど民間だ。
同じく「おわりに」に書かれた

行けばいいのですから。来ないのならば、行けばいいのです。

の一文は、私が天ポケラストを見た時の感想と全く同じだった。福岡という街は、行くしかない場所なのだ。

ドゲンジャーズハイスクール第12話

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普通の女の子が、普通ではない力を得て、仲間と出会い、別れを経験して、成長して、大団円。
終わってみれば、そりゃそうだそうなるしかないよねという王道中の王道の物語だった。
なのになんでこんなにひとっっっつも予想が当たらないんだドゲンジャーズ!
一度社長を倒したところで、「あっよかった切袴と別れないんだ!」って本気で思った。ドゲンジャーズならそれもありだと思った。そしたらそれすら外れた。その上さらにひっくり返された。泣き笑いの感情の振れ幅も予想外すぎてもう、クラファンがなかったら半日は泣き続けてたと思う(金策で我にかえった)。

話の大筋は王道だし、要所要所はベタすぎるくらいベタなお約束踏襲してくれてるし、なのになんでほんとに一つも予想通りにならないのかさっぱりわからない。そして、ことごとく予想を超えることばかりしてくるのに、「ぜったいにがっかりさせない」という点だけは何があろうと外さないのもやっぱりわからない。結局今期もわからないわからない言ってるな。

1話でちらっと出てからは最終話までメタルくん出てこなかったけど、出ないわけないと思ってたし、出たら絶対素敵な出方するだろうしと思ってたらまさか兄さんのあんな面を見せてくれるとは……!
充血フォームって結局発動の要件とか出てないけど(ドゲンジャーズの中では。実在の方の充血フォームについてはぜんぜん知らない)、弟のピンチで頭に血が昇ったらああなるとかだと堪んないですね。想像するのは自由だと思っている。北九兄弟はほんとずるいよ……。北九州にあんなとてつもない兄弟がいたとか、知らずに一生を終えなくてよかった。

最終決戦はみんな刀を使ってたけどひとりひとりみんならしくて、特にグレイト2くんの、グレイトX背負っての必殺技かっこよかった! きっと他の人の技も使えて、それはグレイトシリーズの全部が好きだった陸くんにしかできないことよね。
エルさんが武器苦手なのもいいし、肉弾戦になった途端実況入る丁寧さが好き。そもそも給水所がある最終決戦があまりにドゲンジャーズらしくてたまらなかった。大自然のお弁当食べたい。

それでやっぱり私、ヤバイ仮面社長が好きだわ。
後半はもう泣きっぱなしだったんだけど、泣き始めたのは、切袴との別れのシーンより前、ヤバちゃんが一度やられながら「結局全部、いい思い出にしやがる」と言ったところだった。あのセリフがもう、刺さって刺さって。
ヤバちゃん最初から「こんなガキに負けたの?」って言ってたし、今回も「世の中ぜんぶ理解したみたいな顔、たまにするだろ」とか、すごい的確に高校生のこと嫌いで小馬鹿にしてるー!ってそこがもう自分でも知らなかったツボを撃ち抜かれまくった。
私はもう中年なので、若い子に無条件に腹立てるとかあまりないんだけど(そんな体力がない)、でもあの、若さゆえの小賢しさをキラキラで覆い隠す(隠せてない)しゃらくささは、かつて自分がそうであっただけにわかる。わかるからあんま関わりたくないというか、昔の恥を思い出したくない。それを、高校生が主人公の物語で言うのすっごい好きだと思った。
「いい思い出にしやがる」って言葉は、そこを通過した人にしか言えない。良いも悪いもいつかは全部懐かしいで片付いてしまうなんて、青春真っ只中の子には理解し得ないことだから。
青春の後にも人生が続いていくことがさらりと肯定されたような気がした。怪人だけど。

ヒーローをラスボスから救おうとするのが素面の、変身する力もないままの男の子というのが予想外過ぎたのだけど、真子ちゃんを助けるのは大輔くんで、大輔くんを助けるのは真子ちゃんと考えたら至極当然なんだよなぁ。最後、MAKOは大輔くんに手を差し伸べて、第一話で想像した自分の姿を実現した。男の子だ女の子だ関係なく、あのふたりと思えばすべて自然で、キャラクターを愛し、ひとりひとりに深く思いを致すとはこういうことかと思った。

次は学園ものですと聞いたときは、ただただ「女子高生」という表象の取り扱いがひたすら不安だったのだけど、それはドゲンジャーズ3期への不安ではなくて、自分がこれまで見てきたフィクションへの不信感だったというのが始まってみたらよくわかった。
ガワの出番が減るのでは的な不安は実は持っていなくて、1話冒頭の福岡の日常が流れたときに、「見たかったのこれー! 知らなかったけどー!」となった。

同時代において、「好きな漫画家」を見つけることは大体の人ができると思う。この国では。それが、「同時代の好きな脚本家」になると途端に難易度が跳ね上がるのはどうしてだろうとずっと思っていた。
漫画は、一人の人が考えて、一人で平面にそれを描き、読者がページを開くまで始まらない(アシスタントとか編集者とかいるのはわかっているが割愛)。
テレビドラマは、最初一人の人が考えたものが、映像になるまでには、夥しい数の専門職の手や体を介する。それを、法律で許可を得た電波に乗せ、誰でもみられる場所で広く公開される。
メディアはメッセージであるという言葉を引き合いに出すまでもなく、どうしたって公共性を帯びるし、そこで強烈な作家性を維持し続けるのは難しい。
その上過去にいくら名作があろうとも、その時代のお茶の間で流れたのだから、同時代に生きていることが何より大切だ。その時生きていないとわからない感情がきっとある。向田邦子には間に合わなかったけど、野木亜紀子がいるのだから十二分にラッキーだと思っていた。
こんなにも予想がつかなくて、でも絶対に期待を裏切らないのに、次に何を見せてくれるかわからない脚本家シャベリーマンが、同時代にいることをほんとうに幸運に思う。
私は物語のことしか言わないけど、その物語をドラマにするまでの気の遠くなるような工数を共に積み重ねてくれる仲間がいることを、仔細わからない一視聴者ながら嬉しく思う。今期は特に、出るべきものが出るべき時に出ている感じがして、ああ、社員が増えたんだなぁと思った。実在のヒーローが出てくる絵空事を見ながら、それを作り出す実在の企業のこともずっと考えている。

文化祭をヒーローが手伝いに来ることが、ドゲンジャーズのスポンサード構造をメタ的に解説するのだろうかと思った。これについては、ヒーローひとりひとりが、というより、キタキュウマンが言った「宣伝」についてがそれだったように思う。素敵なものを知るきっかけを、ドゲンジャーズが作る。
ただ、私には肌で感じることのできないドゲンジャーズ商圏とでもいうべきものが、どうもめちゃくちゃ広がっていてしかも拡大し続けているようなので、現時点でどうこうと結論づけるのも無意味だと思った。
ふくやさんとピザクックさんが奇跡のコラボをしたように、ドゲンジャーズに関わる企業同士が連携することで、またいろんなことが変わっていくのだろうし。

福岡の企業を、博多の町人文化を理解しないことにはどうにもドゲンジャーズのスポンサーのノリについていけないんじゃないかと思って物の本を読んだりしているのだけど、やっぱり、福岡の企業って、すごく変わってると外から見て思う。ちょっと知っただけだけど、ますますそう思う。

最後の一騎打ちでMAKOが見つけた覚悟は、MAKOというひとりのヒーローの信念なのだけど、最近福岡のビジネス書を読みかじっている私には、あの覚悟を持ったヒーローがふくやさんの娘さんということがすごい腑に落ちてしまった。最初の誘拐と明太ピザのきっかけ以外はふくやさんそんなに出てこなくて、あくまで真子ちゃんは真子ちゃんとして描かれてきたのを見てるから、多分そういうことじゃないとはわかっているのだけど。
いつの時代も都から遠い距離にあった(邪馬台国はあったかもしれないが)福岡という都市が発展していく歴史を知ると、己の利益よりも街のため、地域のために腐心した人の存在を抜きには語れなくて、その中でもやっぱり渡邉與八郎氏と、ふくや創業者の川原俊夫氏は特筆すべき存在と思った。
明太子の製法を広く公開して福岡を代表する名物を作った創業者と、それを通販するノウハウを公開して福岡にたくさんの本社を呼び込んだ息子がいて、そのずっと後に、大切な人と一緒にいるために自分がどうこうじゃないと悟ったヒーローの真子ちゃんがいることにすごく納得してしまったんだけど、家系で理由をつけてしまうのは、彼女が自分で獲得した努力を軽んじることになる気もする。

家系を持ち出すことに躊躇するのは、大切な人のために私心を捨てるMAKOの信念が、ふくやさんだけではなく、私が「変わってる」と思う、福岡の企業みんなに通じることに思えるから、というのもある。
そして、その変わった企業の中でこれから成長していく悪の秘密結社の、「福岡での内製化を進めて、福岡の雇用を生む」という決意が実は一番、MAKOの横顔とだぶって見えたのだ。

特撮番組を見終えた感想としてはだいぶ変だけど、「御社のますますのご発展を心よりお祈り申し上げます」。泣く時も笑う時も、結局ずっとこう思っている。

画面外の覚書

youtu.be

毎週決まった時間に充実の内容がアップされることは、当たり前じゃないと知っている。3ヶ月間ありがとうございました。


終わってからの情報量が多いんだよ! これが実在するということか。